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契丹

モンゴル高原東部で活動した遊牧狩猟民族。耶律阿保機が部族を統一して契丹(キタイ帝国)を建国。後晋から燕雲十六州を割譲され、さらに開封を占領し947年には国号を遼と称す。1125年、金と宋に挟撃され滅亡した。

 きったんと読む。キタイというのが本来で、キタンとも表記し、キタイ帝国という言い方をすることもある。契丹はその中国名。モンゴル高原東部、遼河上流のシラムレン川とラオハムレン川流域で活動していた遊牧狩猟民族で、モンゴル系とされている。唐の時代、渤海を興した靺鞨と同じぐらいの力をもっていたが、はじめは渤海に押されていた。8つの部族に分かれていたがその一つの族長の耶律阿保機が内モンゴルの熱河地方にいた8部族を統一し、916年契丹国を建国し太祖となった。唐の滅亡(907年)と五代十国の混乱から逃れてきた漢人を受け入れ強大となり、926年に東の渤海を滅ぼし、さらに南下して漢民族の領域を脅かすようになり、五代の各王朝および宋王朝を圧迫した。936年には五代の一つ、後晋の建国を支援し、その見返りとして燕雲十六州の割譲を受け、長城以南の漢民族の居住する農耕地域をも支配するようになり、946年には後晋を滅ぼして、一時中国の華北を支配し、翌947年には国号を中国風の遼と称した。
 → 以下、の項を参照。

契丹と遼

 いずれもキタイが建国した国家の名称。契丹は民族名としても用いられるが、中国で用いられた国号でもあった。契丹は中国風の国号としては(正確には大遼)と称したが、それは後晋を滅ぼして都の開封(黄河中流域)を占領した翌年の947年が最初である。一時ではあるが中国本土の華北を支配したので、中国風の王朝名が必要になってからのことであり、その後中国全土の支配を放棄して北方に戻ってからの983年に再び契丹に戻し、さらに1066年にはまた遼(大遼)に復している。しかし煩雑さを避けて、916年から1125年に存在した契丹の国家を遼として説明することも多い。なお、キタイという民族名は、現在の英語の中国を意味する Cathay の語源となっている。
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