詳説世界史 準拠ノート(最新版)
第6章 内陸アジア世界・東アジア世界の展開
2節 東アジア諸地域の自立化
■ポイント 唐末~五代の中国の変化が、東アジアの国際関係、文化にどのような変化を与えたかを考える。
(1)東アジア世界各地の政権交代
- 北方世界 9世紀半ば a ウイグル がキルギスに滅ぼされる → トルコ系民族の西方移動(前出)。
→ モンゴル高原南西部を本拠としたモンゴル系のb 契丹 が台頭、北方世界の主役となる。 - 中国 907年 唐の滅亡。 五代十国の分裂時代に入る。
- 東北地方 926年 b 契丹 がc 渤海 を滅ぼす。
- 朝鮮 918年 新羅にかわりd 王建 がe 開城 を都にf 高麗 を建国。936年、半島統一。
- 雲南地方(中国南部) 937年 南詔にかわりからg 大理 が建国。タイ人の国家。
- ベトナム 10世紀後半、ベトナム人が独立国家を作る。 → 1009年 h 大越国 (李朝)が成立。
- 変化 i 唐を中心とした東アジア文化圏の統合がゆるみ、地域独自の特色ある文化が形成された。
b 高麗版大蔵経 (海印寺)
(2)独自の文化の形成
- 仏教経典が集成され、b 高麗版大蔵経 が刊行(木版)された。
- ▲金属活字が発明される(13世紀)。(実用化は15世紀の朝鮮で)
- 独自のc 高麗青磁 がつくられる。翡色青磁や象眼青磁がある。
- 12世紀 高麗で武臣(軍人)の政権できる。(崔氏政権)
- 894年 a 遣唐使の廃止
- 10世紀 律令政治の崩壊が進行。仮名文字、大和絵などb 国風文化 が成立。
→ 平将門・藤原純友の反乱(935~941 承平・天慶の乱)がおこる。 → 武士階級の成長始まる。 - 11世紀 藤原氏による摂関政治。貴族文化の隆盛、『源氏物語』・『枕草子』などが創られる。
- 12世紀後半 平氏政権のもとで、盛んにc 日宋貿易 が行われる。
- 12世紀末 d 鎌倉幕府 の成立。 → 貿易とともに、僧侶の往来も盛んになる。
Text p.158
(3)中国独自の文化の発展と、アジアの民間貿易の展開
- 960年 a 宋 の成立 → 唐の国際的文化に替わり、中国独自の文化が強まる。
- 中国を中心としたb 朝貢貿易 が衰え、民間交易が活発化する。
→ 東南アジア・日本などとのc 銅銭 、d 陶磁器 などの貿易が行われる。 - 中国の港の繁栄 e 広州 ・f 泉州 ・g 明州 (寧波)など。
→ 唐代に続き、h 市舶司 が置かれ、海上貿易を管轄。
■ポイント 北方系の民族はどのような国家を作り、また中国の歴史とどのように関わったかを知る。
A契丹 遼河上流で半農半牧生活を送るモンゴル系民族。a キタイ の名は西洋に伝わる。- 916年 b 耶律阿保機 (太祖)が内モンゴルの熱河地方を本拠に即位し建国。
→ 926年 東のc 渤海 を滅ぼし、さらにモンゴル高原を制圧。 - 936年 五代の後晋の建国に協力し、代償として、d 燕雲十六州 を併合。
= 河北・山西の北部(万里の長城の南側)。燕京(現北京)を副都とする。 - 947年 後晋を滅ぼし、開封に入城し、国号をe 遼 に改める。(後に契丹に戻る。)
解説
契丹は民族名であると同時に国号であるが、後晋の都の開封を占領した翌年の947年、中国風の国号として遼(正確には大遼)と称した。その後中国本土の支配を放棄して北方に戻った983に再び契丹に戻し、さらに1066年にはまた遼(大遼)に復している。ただし、煩雑さを避けて、916年から1125年に存在した契丹の国家を遼として説明することも多い。なお、キタイという民族名は、現在の英語の中国を意味する Cathay の語源である。
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B遼(契丹) 中国本土で、960年 a 宋 が五代の混乱を統一。Text p.159
- 華北の混乱に乗じて、B 遼 が南下。a 宋 を圧迫。
- 1004年 b 澶淵の盟 :宋(真宗)が遼(聖宗)に和議を申し出る。(後出)
= 宋を兄、遼を弟とし、宋が毎年c 銀10万両・絹20万匹 を遼に送ることを約束。 - 意義=北方民族として本拠地を保ちながら中国をも支配した最初のd 征服王朝 であった。
- 特色 e 二重統治体制 をとる。
= 遊牧民族にはf 部族制 、漢人など農耕民にはg 州県制 を適用。
官職は前者にもとづくh 北面官 と後者にもとづくi 南面官 を併置した。 - 文化 :中国文化を吸収し仏教を保護。
独自のj 契丹文字 を創作920年、太祖がウイグル文字と漢字をもとに作った。(未解読)
解説
遊牧民族である北方民族が、広大な中国の本土の農耕地帯を征服し支配するさいに、北方の本拠地を抛棄するのではなく、それを保ちながら中国を支配し、北方民族には独自の方式を適用し、漢民族には従来の方式を残して双方の統治方式を並立、または両用した王朝を征服王朝という。契丹の遼、女真の金、モンゴルの元、女真の清の4王朝がそれにあたる。なお、南北朝時代の北魏は異民族鮮卑が建てた王朝であり、隋や唐もその系統であるが、これらはいずれも漢文化に同化したので、征服王朝とはされない。
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Text p.160
C西夏 チベット系a タングート 、陝西・甘粛地方で遊牧生活を送る。- 1038年 吐蕃やウイグルを破り、b 李元昊 がc 大夏 を建国(一般にC 西夏 という)。
都は興慶。(黄河上流左岸、現在の寧夏回族自治区銀川市)
→ 黄河上流城のd 内陸(東西)貿易路 を支配。しばしば宋に侵入し圧迫した。 - ▲1044年 宋とのe 慶暦の和約 を結ぶ。→ 宋が毎年、歳賜として銀や絹を贈る。
- 文化:仏教が盛ん。漢字を基にして独自のf 西夏文字 を創作、多くの仏典を翻訳。(ほぼ解読)
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D金 ツングース系a 女真(女直) 、中国東北地方で半猟半農生活を営み、はじめ契丹に服属。- 1115年 b 完顔阿骨打 (太祖)が建国。都は上京会寧府。
- 1125年 宋と結んでc 遼 を滅ぼす。
→ 遼の皇族d 耶律大石 は中央アジアに逃れ、e 西遼(カラ=キタイ) を建国。 - 1126~27年 金が宋の都f 開封 を占領、皇帝らを拉致(靖康の変=後出)。華北を支配する。
→ 宋王朝の一部が江南の臨安に逃れ、南宋を建国。(後出) - 1142年 南宋と和議。g 淮河 を境に南北に並立し、盛んに交易も行われる。
- 1153年、都を燕京(現在の北京)に遷す。郊外に、盧溝橋を建設。
- 遼と同じくh 二重統治体制 をとる。
女真族に対しては部族制にもとづくi 猛安・謀克制 によって統治
= 300戸を1謀克、10謀克を1猛安とする軍事・行政組織。
華北の漢民族に対しては宋の郡県制を継承。 - 文化:j 女真文字 太祖が漢字と契丹文字をもとに作成。(ほぼ解読)
- 宗教 道教の一派、全真教が起こる。(後出)
- 北宋に続き、紙幣(交鈔)を発行。(後出)
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13世紀 モンゴルが進出。1234年に滅ぼされる。
※北方民族が使用した文字
解説
10世紀のアジアで漢民族の唐王朝が滅亡し、周辺諸民族が自立するなかで、それぞれ独自の文字を持ったことは重要。日本の仮名の発明もその一つの動きであった。
- 契丹文字は、920年、太祖耶律阿保機が制定した大字(表意文字)と後に作られた小字(表音文字)からなり、両者が併用された。契丹文字は「漢字の字形または構成原理を模倣して創作した文字」であるが、現存する資料が少なく、解読はまだ完全には行われていない。
- 西夏文字は1036年に李元昊が制定したもので、漢字の字形と構成原理を模倣して新たに創作した文字(疑似漢字)。解読は困難であったが仏典に使用された文字を西田龍雄氏(京都大学教授)がほぼ解読している。
- 女真文字は金の太祖(完顔阿骨打)が1119年にまず大字(表意文字)を制定し、20年後の1138年、三代熙宗の時に小字(表音文字)がつくられ併用された。字形は漢字を模倣し、文字システムは契丹文字を参考にしている。金が滅亡したため忘れ去られ、解読は困難であったが、現在かなり進んでいる。
A 趙匡胤
- 都をb 開封 に定める。 = 後の南宋と区別しc 北宋 ともいう。
- 武断政治からd 文治主義 への転換。軍人ではなく、文人官僚を用いる。
e 節度使(藩鎮) の欠員に文官を補充し、その勢力を除外した。
▲中央では、門下省を廃止し中書省と併合し、中書門下省とする。
皇帝親衛軍(禁軍)を強化。統制機関として枢密院を設ける。 - f 科挙 の完成。皇帝政治を支える官僚の育成を図る。
州試、省試に続き最終試験を皇帝が試問するg 殿試 とする。 - 趙匡胤の統治の特徴
h 皇帝権力の強化と中央集権化をはかり、文治主義に転換し、官僚機構を整備した。
Text p.161
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B太宗 による統一 979年 a 太宗 (趙匡義)が後周を滅ぼし、中国を統一。
- b 文治主義 の完成にともなう変化。
c 科挙 は男性であれば階層、血統を問わず受験できた。▲合格し官僚となった戸をd 官戸 と言った。 - 儒学、詩文を学んで科挙に合格する経済力のある新興地主層=e 形勢戸 が登場した。
- 対外消極策=契丹(遼)・西夏との講和を進める。(上述)
1004年 契丹(遼)との講和 =f 澶淵の盟 :絹と銀を歳賜として贈る。(上述)
1044年 西夏との講和 =g 慶暦の和約 :銀、絹、茶を贈る。(上述) - h 官僚組織の膨張、防衛費の増大、北方民族に対する歳賜など により、財政の窮乏が深刻になる。
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C王安石の改革 1070年 a 神宗 が宰相にb 王安石 を登用し、改革に当たらせる。
c 財政難の解消と富国強兵 をめざし、d 新法 とよばれる改革を行う。
- e 青苗法 :貧農へ植え付け時に金銭や穀物を低利で貸し付け、収穫時に返済させる。
- f 均輸法 :各地の特産品を不足地で売却し物資流通の円滑化と物価安定をはかる。
- g 市易法 :中小商人への低利貸し付け。
- h 募役法 :徴税・治安などの役務の代わりに免役銭を徴収し、役務は希望者から募集。
- i 保甲法 :農閑期に農民に軍事訓練を行う。傭兵に変わる兵農一致策。
- j 保馬法 :馬を民間で飼育し、戦時に徴発する方法。
- 税制 ▲方田均税法の実施。
→ 農民、中小商工業者の安定をめざしたが、k 地主・大商人、特権的な官僚が反発 した。
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D党争 の継続 王安石の退任後、その改革を支持するかしないかで対立が激しくなる。
- 王安石の改革を支持する一派= a 新法党
- 反対派= b 旧法党 (保守派のc 司馬光 ら。地主層・塩商人などが支持)
→ 宋の国力を弱め、各地に農民の反乱起こる。(後出)
Text p.162
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E靖康の変 ツングース系女真族のa 金 が遼を滅ぼし華北に進出(1125年)。
- 1126~27年 a 金 が宋の都b 開封 を占領する。
→ 上皇のc 徽宗 ・皇帝のd 欽宗 は捕らえられ拉致される。 - 1127年 皇帝の弟e 高宗 が江南に逃れf 臨安 (現杭州)を都とする。
→ それ以降をg 南宋 という。1127~1276(79)年 - a 金 との関係を巡り、和平派のh 秦檜 と主戦派のi 岳飛 が対立。和平派が権力握る。
- 1142年 h 秦檜 の主導により、和議を結ぶ。
→ j 淮河 を国境とし、宋は金に臣下の礼をとり、多額の銀と絹を送る。
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13世紀 モンゴルの台頭 → 1276年 開封がモンゴル軍に占領される。1279年に完全に滅亡。(後出)
12世紀頃のアジア
1 金 2 南宋 3 高麗 4 西夏 5 吐蕃(チベット) 6 大理
7 西遼(カラ=キタイ) 8 ホラズム 9 セルジューク朝 10 ゴール朝 11 チョーラ朝
12 パガン朝 13 アンコール朝 14 大越国(李朝) 15 チャンパー 16 シュリーヴィジャヤ
- 宋の首都a 開封 の繁栄 商業が発展。
長安との違い:政治的な都城ではなく、b 城壁都市を基に市場・繁華街が広がってできた商業都市 。
その位置:c 黄河と大運河の接点で、中国の東西南北の商業網の中心 に位置した。
→ 張択端の絵画d 『清明上河図』 に描かれている。 - 新たな商業都市の発生:
e 草市 ・f 鎮 など、城壁外や交通の要地に商業の盛んな場所が生まれた。 - 同業組合の結成:商人の組合=g 行 、手工業者の組合=h 作 が生まれた。
- 貨幣経済の発達:銅銭(宋銭)のほか、金銀も地金のまま用いられる。
紙幣:手形として用いられた唐のi 飛銭 に替わり、北宋でj 交子 ・k 会子 が発行される。
j 交子 :初め四川地方で使用された。 意義:l 世界最初の紙幣の発行とされる。
k 会子 :南宋で発行された。
▲華北を支配した金ではm 交鈔 が発行された(元に継承される)。(後出) - 地主層の成長:貨幣経済の進展にともない、富裕になった地主(n 形勢戸 )は、荘園を拡大。
→ その土地を小作人=o 佃戸 に耕作させる。 → 明・清まで続く。
解説
Text p.163
解説
中国の唐末から宋の時代、商工業や貨幣経済が発達した10~12世紀は、ヨーロッパは中世封建社会が続き、商工業・貨幣経済はむしろ衰えていた。中世を通じヨーロッパでは国家による統一的な貨幣鋳造も、紙幣の発行もなかったことにくらべれば、アジア文明圏の経済と文化の優位性が認められる。宋代の商工業と貨幣経済は、元代にも受け継がれ、13世紀に中国に渡来したマルコ=ポーロなどヨーロッパ人をして感嘆させることになる。
解説
佃戸制は五代に発生し、宋代に一般化して、元・明・清まで続くものであり、その負担や権利は、時期・地域によってかなり違いがある。一般的に言えば、宋代の佃戸は、法律的には自由人であるが、経済的には重い負担(一般的には生産量の半分が小作料)を負わされ、地主に従属していた小農民層、といえるだろう。また次第に農奴的側面から自由民的側面に変化していったのであり、その過程で明清時代には佃戸の小作料軽減を求める抗租運動が起きている。
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B江南の開発 1127年 宋の南渡 → a 長江下流域 の開発進む。
- 宋の中国経済の中心が、長安などの西北から、東南の江蘇・浙江・福建などに移る。
- 耕地の拡大:湿地に堤防を築いて干拓したb 囲田 が広がる。▲他に圩田、湖田が作られた。
- c 占城稲(チャンパー米) の普及:インドシナから伝えられた早稲種。二毛作・二期作が普及。
- 江南の繁栄を示す言葉:d 蘇湖(江浙)熟すれば天下足る と言われた。
= e 蘇州 (江蘇省)とf 湖州 (浙江省)を中心とした長江下流の穀物生産が中国を支えたこと。
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C手工業の発達
- a 陶磁器 では、▲b 景徳鎮 の官窯が始まる。 → 明代に発展。
- 他に 絹織物、漆器などの生産が増加。
- ▲c 茶 の生産増加。宋はd 茶の専売制 をとる。
解説
宋代の社会は、中国独自の習慣が生まれた時期であった。その一つが女性の纏足である。また、北宋末の混乱期には、宮廷の奢侈、重税などに対する不満からしばしば農民反乱が起きている。その一つが、1120~21年の「方臘の乱」で、これは『水滸伝』の背景となった農民反乱である。
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(1)東アジア世界各地の政権交代
a 士大夫 の生活
- a 唐の国際性は消え、中国文化の独自性が強まった。
- b 担い手は従来の貴族ではなく士大夫たちであった。
- c 受容範囲が広がり、庶民文化も興ってきた。
Text p.164
(2)a 士大夫 とは、
- 政治的にはb 科挙に合格した上級官僚 。
- 経済的にはc 新興地主(形勢戸)出身 。
- 文化的にはd 儒学・詩文の教養を身につけた知識人。
という三つの側面を持つ宋代の文化を支えた階層。
(3)儒学の新展開
- a 宋学(朱子学) =北宋のb 周敦頤 に始まり、南宋のc 朱熹(朱子) が大成した。
宇宙観 太極(真理=理)と無極(材料=気)を一体としてとらえる。(禅宗の影響)
実践倫理(道徳)として、d 大義名分論 =上下、君臣の関係の正しいあり方を説く。
歴史観として、華夷の別=漢民族の文化を絶対化し、周辺民族を夷とするe 中華思想 を強めた。
経典としては、f 四書 (『大学』・『中庸』・『論語』・『孟子』)を重視。
→ a 朱子学 は、儒学の正統とされ、朝鮮・ベトナム・日本の社会に強い影響を与える。 - 歴史書 g 司馬光 のh 『資治通鑑』 大義名分を明らかにしようとした編年体の歴史書。
- ▲編纂物 『太平御覧』太宗の命で李昉らが編纂。『冊府元亀』真宗の命で編纂。
- ▲新しい思想の始まり:陸九淵(陸象山)は、人間の心性を重視。
→ 明代の陽明学の源流となる。
①d 徽宗 の『鳩桃図』
(4)文学と美術・工芸
- 文学:a 欧陽脩 、b 蘇軾(蘇東坡) 、王安石ら。
古文復興の一方で、白話(口語)による小説・雑劇が発達した。 - 絵画:宮廷画家によるc 院体画 :d 徽宗 の『鳩桃図』(①)など。
Text p.165
士大夫によるe 文人画 :b 蘇軾 (②)、米芾、牧谿など。 - 工芸:宋磁=f 白磁 ・g 青磁 などの磁器が発達。
h 景徳鎮 の窯業始まる。 - 庶民文化:小説・雑劇、音曲に合わせてうたうi 詞 が盛んになる。
②b 蘇軾 の『墨竹図』
(5)宗教の展開
- 仏教:a 禅宗 が発展。官僚層によって支持される。
→ 日宋貿易を通じ、日本に影響を与え、鎌倉仏教が成立。 - 道教:金の支配下の華北でb 王重陽 がc 全真教 を創始。
= 儒・仏・道を調和させ、修養を重んじる。
→ 南宋では、従来の道教がd 正一教 と言われる。
(6)新しい技術
- a 木版印刷 :隋唐に始まり唐末五代に発展し宋代に普及した。
- b 活字印刷 :11世紀半ばに膠泥活字発明。実用化はされず。
- c 羅針盤 :磁石を利用。宋代に実用化される。
- d 火薬 :12世紀、金と戦った宋で実用された。
→ 宋代の科学技術はe イスラーム世界を通じヨーロッパに伝来。ルネサンスの三大発明に影響した。
解説
11世紀の半ば、北宋の慶暦年間に畢昇(ひっしょう)という工人が活字印刷を発明した。この活字は土を固めたもので、鉄板の上に蝋を流し、その上に活字を並べ、上から紙をあてて印刷した。やがて木活字がつくられ、13世紀はじめには朝鮮(高麗)で金属活字(銅)が使用されるようになった。
印刷術は製紙法の伝播と違い、すぐには西方に伝わらなかった。それは中国に来ていたイスラーム教徒には、コーランを印刷することは神を冒涜することと思われていたためである。ようやく、モンゴルが中国を支配した13世紀になって、直接に中国にやってくるようになったヨーロッパの商人や宣教師によって、中国で紙幣を印刷していることが知られ、14世紀の末にイタリアで印刷業が起こった。中国では漢字の性格上、木版印刷が盛んであったが、文字数の少ないアルファベットを使用するヨーロッパでは金属活字印刷が急速に普及した。