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趙孟頫

元の文人で画家。文人画を復興させる。南宋の皇帝一族の血筋であったが元に仕えた。

趙孟頫の書と画
趙孟頫『水村図鑑』 北京故宮博物館蔵
 ちょうもうふ。または趙子昂(ちょうすごう)と称す。元の文人で、元の文化のなかで漢文化の伝統を維持した。書と絵画に優れ、南宋の院体画に対して文人画を復興させ、元末四大家への橋渡しをした。また書では王羲之以来の貴族的な正統を継承した。なお、姓からわかるように彼は宋の皇帝一族に属していたが、異民族の元朝に仕え、高官になったので、無節操と非難されている。

Episode 趙孟頫と藤田東湖

 趙孟頫は優れた書家・画家であったが、南宋の皇帝一族の血を引きながら、南宋を滅ぼした夷狄の元に仕えた男ということで、明代以降、破廉恥漢、裏切り者としてさげすまれてきた。儒学の大義名分論を受けいれた江戸時代の漢学教育でも同様で、そのような人間観は第二次世界大戦まで続いていた。
 幕末の尊王攘夷論で名高い水戸の藤田東湖は、若いころ趙孟頫の書を学んだが、年齢がすすんでから趙孟頫がニ朝に仕えたことを知り、自分の筆記用具は机の上に置きながら、手本の趙孟頫の法帖を机からおろし、学びながらあざけったという。幸田露伴はこの話は疑っているが、水戸学の頭の固い教条主義者の藤田東湖なら、やりそうなことだ。
 知られている趙孟頫は、まじめでひたむきな人だった。愛妻とのおしどり夫婦ぶりはめずらしいほどである。趙孟頫は久かたぶりに合一された北と南の中国社会の架け橋となった。腐敗と汚辱、嫉妬と足の引き合いでどろどろになっていた南宋政府より、モンゴル政府の方がはるかに健全で自由、かつのびやかだった。<杉山正明『大モンゴルの時代』1997 世界の歴史9 中央公論新社 p.287-290>
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