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世界の記述/東方見聞録

マルコ=ポーロが著した東方への旅行記。『東方見聞録』ともいう。

 マルコ=ポーロが1271年から1295年にいたる25年間の東方への大旅行を記録した書物。帰国後ジェノヴァの獄中で口述筆記され、その死後発表された。その詳細な記録は、ヨーロッパに初めて中国とその周辺の諸国、知らせることとなった。特に日本の存在は、ジパングという名で初めてヨーロッパに伝えられた。 → 東西交流

マルコ=ポーロの伝えるジパング

 マルコ=ポーロの『東方見聞録』で日本がジパング(チパング)として始めてヨーロッパに伝えられたことはよく知られているが、実際にどのように報告されたのか、愛宕正男氏の訳で見てみよう。
(引用)チパング(日本国)は、東のかた、大陸から千五百マイルの大洋中にある、とても大きな島である。住民は皮膚の色が白く礼節の正しい優雅な偶像崇拝教徒であって、独立国をなし、自己の国王をいただいている。この国ではいたる所に黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大な黄金を所有している。この国へは大陸から誰も行った者がいない。商人でさえ訪れないから、豊富なこの黄金はかつて一度も国外に持ち出されなかった。右のような莫大な黄金がこの国に現存するのは、全くかかってこの理由による。
 引き続いてこの島国の国王が持っている一宮殿の偉観について述べてみよう。この国王の一大宮殿は、それこそ純金ずくめで出来ているのですぞ。我々ヨーロッパ人が家屋や教会堂の屋根を鉛板でふくように、この宮殿の屋根はすべて純金でふかれている。したがって、その値打ちはとても評価できるようなものではない。宮殿内に数ある各部屋の床も、全部が指二本幅の厚さを持つ純金で敷きつめられている。このほか広間と言わず窓と言わず、いっさいがすべて黄金造りである。げにこの宮殿はかくも計り知れない豪奢ぶりであるから、たとえ誰かがその正しい評価を報告しようとも、とても信用されえないに違いない。<愛宕正男訳『東方見聞録』2 平凡社東洋文庫 p.130>
 このあとにマルコ=ポーロは、フビライの日本遠征軍派遣を1239年のこととして伝え、暴風雨のために船団が難破したが、生きのこった軍勢が上陸してジパング王の軍隊のように見せかけて適地の都を占領した、と述べている。カーンの軍隊は7ヶ月にわたって首都を占領したがカーンと連絡が取れなくなり、ジパング兵に包囲されて降伏した。カーンは遠征軍の指揮官を斬首刑に処したという。その他、にわかに信じ難い話が載せられており、全体として正確なものではない。しかし、ミステリアスな分だけ、この報告はヨーロッパの人々を引きつけたようだ。
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愛宕正男訳
『東方見聞録』2
2000 平凡社ライブラリー