マルコ=ポーロ
13世紀、元のフビライに仕えたヴェネツィアの商人。『世界の記述』(東方見聞録)を著した。
イタリアのヴェネツィア生まれの商人。1271年、17歳の時、父や叔父と一緒に東方への旅に出発し、陸路をとり、トルキスタン、西域を通って、1275年に元の都大都に至った。元の世祖フビライに厚遇され、政務に参加した。1292年にイル=ハン国に嫁ぐ王女を送って泉州を出航、海路マラッカ海峡を通って使命を果たした後、1295年にヴェネツィアに帰った。マルコ=ポーロはヴェネツィアに帰国後、貿易に従事していたが、ジェノヴァとの戦争が起こり、その時捕虜となって捕らえられ、獄中でその見聞をルスティケロという人物に話をした。ルスティケロが記述したのが『世界の記述(東方見聞録)』である。
すでにローマ教皇インノケンティウス4世は修道士プラノ=カルピニを派遣し、またフランス王ルイ9世の時にはルブルックがモンゴルに旅行している。しかし、この二人はカラコルムにとどまり、中国本土の情報はもたらさなかった。それに対してヴェネツィアの商人マルコ=ポーロは1260年代から80年代まで、数十年も中国に滞在し、その記録である『東方見聞録』は元帝国だけでなく、イル=ハン国やキプチャク=ハン国などの事情を伝えると共に、日本を含むアジア諸地域の情報を伝えたものであり、大きな驚きをもって迎えられた。またマルコの旅行が、宗教的・政治的な目的ではなく、商業活動として行われたものであったことが、新しい視点での情報を伝えることとなった。
しかし、その編纂過程や、旅行ルート、またマルコ自身のことなどは詳細は語られておらず、謎が多い。その点ではほぼ同時代のイブン=バトゥータの『三大陸旅行記』にくらべると不十分である。そのため、『東方見聞録』の伝える内容は豊富であっても、その扱いは慎重にならざるをえない。とはいえ、マルコの旅行は13世紀のユーラシア大陸の東西にわたり、その状況を直接伝える貴重な、まさに「世界史」の資料であることは間違いない。
マルコ=ポーロの大旅行
13世紀初め、ユーラシア中央部にモンゴル帝国が成立し、1240年代にその軍団が東ヨーロッパ諸国を襲撃すると、西ヨーロッパの人々もにわかにアジアの東方への関心が高まった。それは折からの十字軍運動ともかかわりがあり、イスラーム教徒の勢力圏の背後の、さらに東方にキリスト教世界と同盟できる勢力があるかも知れない、という期待感であった。すでにローマ教皇インノケンティウス4世は修道士プラノ=カルピニを派遣し、またフランス王ルイ9世の時にはルブルックがモンゴルに旅行している。しかし、この二人はカラコルムにとどまり、中国本土の情報はもたらさなかった。それに対してヴェネツィアの商人マルコ=ポーロは1260年代から80年代まで、数十年も中国に滞在し、その記録である『東方見聞録』は元帝国だけでなく、イル=ハン国やキプチャク=ハン国などの事情を伝えると共に、日本を含むアジア諸地域の情報を伝えたものであり、大きな驚きをもって迎えられた。またマルコの旅行が、宗教的・政治的な目的ではなく、商業活動として行われたものであったことが、新しい視点での情報を伝えることとなった。
しかし、その編纂過程や、旅行ルート、またマルコ自身のことなどは詳細は語られておらず、謎が多い。その点ではほぼ同時代のイブン=バトゥータの『三大陸旅行記』にくらべると不十分である。そのため、『東方見聞録』の伝える内容は豊富であっても、その扱いは慎重にならざるをえない。とはいえ、マルコの旅行は13世紀のユーラシア大陸の東西にわたり、その状況を直接伝える貴重な、まさに「世界史」の資料であることは間違いない。
Episode マルコ=ポーロは本当に中国へ行ったのか
マルコ=ポーロは元の都の大都に赴き、フビライに用いられて様々なことを見聞し、その見聞録が『東方見聞録』であり、日本の含むアジアの詳細な情報が初めてヨーロッパに伝えられたもの、と一般には信じられている。しかし、『東方見聞録』はマルコ=ポーロが筆記したものではなく、しかも版を重ねるにつれマルコ=ポーロ以外の伝聞が加えられていった疑いがある。また、現在では学者の一部には、中国側(元)の史料にマルコ=ポーロのことが一切出てこないこと、17年も中国にいたはずなのに、当時の中国の普通の習慣、たとえば「茶」のことや、「纏足」のことなど、また「万里の長城」などにもふれられていないといったことを理由に、マルコ=ポーロがはたして本当に中国まで行ったのか、と言う疑問を呈している。たしかにいくつかの疑問点はあるが、『東方見聞録』が13世紀の中国を中心とするアジアの状況を伝える貴重な資料であることは間違いはない。<フランシス=ウッド 粟野真紀子訳『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか?』1995 草思社>