医学典範
イブン=シーナーの著した医学書。
イブン=シーナー(ラテン名アヴィケンナ)の著作で、アラビア医学にギリシアのヒポクラテスやローマのガレノスなどの医学を加え、さらにインド医学も取り入れて、完成させた大著。1000年頃から約20年の歳月をかけて書かれ、彼が40歳の頃完成した。アラビア語で約100万語からなり、第1巻では医学の概念、病気の原因とその発現、健康の保持と治療法が述べられ、第2巻から第4巻までは身体の器官の個々の病気と具体的な治療法、様々な薬品について網羅的に書かれている。この書で、はじめて非合理的な迷信や呪術から離れ、病気の原因を治療を科学的に結びつけた医学書が生まれたといえる。12世紀にラテン語にも翻訳され、ヨーロッパの医学にも大きな影響を与えた。1980年から、イブン=シーナー生誕1000年を記念事業としてソ連でロシア語とウズベク語の全訳が刊行され始めた。
イブン=シーナの足跡と医学典範
(引用)紀元1000年頃、ホラズムはホラズム・シャー、マムーン2世イブン・マムーンの治下で繁栄していた。マムーン2世の宮廷には、百科全書的大学者アブー・ライハン・ビルーニーをはじめとする当代第一級の大学者が集まっていた。イブン・シーナは約10年間ホラズムに住み、これらの学者たちと親交を大いに深めた。……1012年、ガズニ朝のスルタン・マフムドはマムーンに書簡を送り、イブン・シーナら五人の学者をブハラの自分の宮廷に迎えたいと申し入れた。……イブン・シーナとその友人の学者マシヒーはマフムドを好まず、招待を断り、ホラズムからも去ることにした。彼らは一人の道案内を雇って、巡礼の姿でカラクム砂漠を縦断してイランへ向かった。途中砂嵐にあったり、道に迷ったりしてマシヒーは死亡したが、イブン・シーナは命からがらイランのニシャプールに着いた。ここからカスピ海東南岸のグルガンに逃れ、生涯の弟子となるアブー・ウベイドゥ・アル・ジュジャニーに出会った。この弟子がイブン・シーナの伝記を書き残した……。イブン・シーナはこの地で畢生の大著『医学規範(医学典範のこと)』の執筆に着手した。1014年レイに移り、ついでハマダンでブーイ(ブワイ)朝のシャムス・アッ・ダウラ(治世997~1021年)の知遇を得、9年間医師、大臣として仕えた。ここで反乱に遭い、投獄されたりしたが、やがてイスファハーンに移り、領主のアラ・アッ・ダウラに優遇され、13年をここで過ごした。ハマダンとイスファハンでの生活はイブン・シーナのもっとも実り覆い時期で、代表的著作はほとんどこの時期に書かれている。……
『医学規範』はペトロフによると、紀元1000年頃執筆をはじめ、1020年頃、つまりイブン・シーナ40歳のとき完結したと考えられている。……イブン・シーナの著作うち、代表的なものはアラビア語で書かれた『医学規範』で、12世紀にラテン語に訳され、これは約30回刊行された。その他ヘブライ語、ペルシア語にも翻訳されている。また19世紀から20世紀初めにかけては独・仏・英の言葉に訳された。<加藤九祚『中央アジア歴史群像』岩波新書 p.48>