ホラズム=シャー国
西トルキスタン、アム川下流にあったトルコ系国家。8世紀にイスラーム化。1077年、ホラズム=シャー国成立。13世紀には中央アジア・西アジアで最も栄えたが、チンギス=ハンに征服され、1231年に滅亡した。
12世紀末に西トルキスタンのアム川下流域に勃興して大国となったが、モンゴルによって滅ぼされたトルコ系民族のイスラーム教国。ホラズムというのは中央アジアのアラル海にそそぐアム川の下流域地方を示す地名。アラビア語ではフワーリズム(川の向こうの地という意味のマー=ワラー=アンナフルともいう)。8世紀以降イスラーム化し、1077年、セルジューク朝のトルコ人マムルーク(トルコ人奴隷)、アヌシュ=テギンがこの地の総督に任命され、ホラズム=シャーを称する。
かくして1218年、モンゴル側の450人からなるムスリム商人の隊商が500頭のラクダに商品を積んでシル川右岸のオトラルというオアシス都市に到着した。ところがオトラルの太守はこの隊商全員をスパイとして拘留し、国王ムハンマドの命令に従ったとしてほとんど全員を殺害し、商品を没収してしまった。
この事件はからくも虐殺を逃れた一人のラクダ使いによってチンギス=ハンのもとに伝えられた。チンギス=ハンは事件の真相を確かめるべく、三名の使節をムハンマドの元に派遣し、没収された商品の賠償と責任者の引き渡しを申し入れた。ところがムハンマドは3人の使節のうち一人は殺害し、他の二名のひげをそりおとして追い返した。これは明らかな挑発であった。激怒した(あるいは予想どおりだと喜んだかはわからない)チンギス=ハンは1219年、15万のモンゴル軍を率いてホラズム=シャーとの決戦に出発した。
ムハンマドは40万の大軍で迎え撃ったが、その大軍を分散させて各都市の防衛にあたらせた。チンギス=ハンはモンゴル軍にオトラルを攻撃させ、数ヶ月の包囲戦の末にオトラルは陥落、オトラル事件の責任者である太守イナルチュクは捕らえられ、後にサマルカンドでその目と耳に溶けた銀を流し込まれて殺された。<間野英二『中央アジアの歴史』新書東洋史⑧ 1977 講談社現代新書 p.140~>
このオトラル事件はチンギス=ハンがホラズム遠征を行った理由としてあげられており、有名であるが、偶然の出来事と言うよりは、中央アジアの覇権をねらう両者にとって避けられないととらえていたのであろう。事実、チンギス=ハンは事件の数年前から西方遠征を想定し軍備を整えていたという。
ホラズム=シャー国の全盛期
その後セルジューク朝から独立し、ホラズム地方のウルゲンチを本拠に、13世紀に急速に台頭、7代目のアラー=アッディーン=ムハンマド(在位1200~1220)の時に最盛期となり、1209年にカラ=キタイ(西遼)からサマルカンド、ブハラなどを奪い、さらにゴール朝からアフガニスタンを奪取し、イランにも進出して中央アジアから西アジアに及ぶ強国を建設した。このころは40万の軍勢を動員することの出来、13世紀初頭の東方イスラーム世界の最強国であった。チンギス=ハンに征服される
しかし、同じころ東方のモンゴル高原ではモンゴルのチンギス=ハンが台頭してきた。1218年、チンギス=ハンはホラズムとの交易を開くため隊商を派遣したところ、アラー=アッディーン=ムハンマドがそれを拒否し、隊商を殺害した。それに対する報復として、1219年からチンギス=ハン自らホラズムに大遠征を行い、1220年、ブハラとサマルカンドを次々と攻略、ホラズム王ムハンマドは首都グルガーンジュを脱出したが、同年末に逃亡先のカスピ海上の小島で病没した。チンギス=ハンはさらにアフガニスタンを南下してインダス河畔まで達したところで1222年にモンゴル高原への帰還の途に着いた。モンゴル軍の別働隊は1221年4月にクルガーンジュを破壊、王子ジャラール=ウッディーンはマー=ワラー=アンナフルを失ったが、王朝再建を企てモンゴル帝国に抵抗を続けたが、1231年にイランとイラクにまたがるクルド人の支配地域に逃れたが、クルド人によって殺害され、ホラズム=シャー国は名実ともに滅亡した。Episode 殺戮の口実 オトラル事件
チンギス=ハンが西方の大国ホラズムに対して大遠征軍を率いて討伐するには口実が必要だった。ホラズムを討つことを考えていたらしいチンギス=ハンにとって好都合な事件は、1218年に起こった。それより前、1215年にホラズム=シャーのムハンマド王は、チンギス=ハンが金の都燕京を攻撃したというニュースを聞き、この東方の新興勢力の実情を確かめるため、使節団を派遣した。チンギス=ハンはそれを丁重にもてなし、返礼の使節団をホラズムにおくり、両国は隊商の行き来を自由にするという相互友好の条約を結んだ。かくして1218年、モンゴル側の450人からなるムスリム商人の隊商が500頭のラクダに商品を積んでシル川右岸のオトラルというオアシス都市に到着した。ところがオトラルの太守はこの隊商全員をスパイとして拘留し、国王ムハンマドの命令に従ったとしてほとんど全員を殺害し、商品を没収してしまった。
この事件はからくも虐殺を逃れた一人のラクダ使いによってチンギス=ハンのもとに伝えられた。チンギス=ハンは事件の真相を確かめるべく、三名の使節をムハンマドの元に派遣し、没収された商品の賠償と責任者の引き渡しを申し入れた。ところがムハンマドは3人の使節のうち一人は殺害し、他の二名のひげをそりおとして追い返した。これは明らかな挑発であった。激怒した(あるいは予想どおりだと喜んだかはわからない)チンギス=ハンは1219年、15万のモンゴル軍を率いてホラズム=シャーとの決戦に出発した。
ムハンマドは40万の大軍で迎え撃ったが、その大軍を分散させて各都市の防衛にあたらせた。チンギス=ハンはモンゴル軍にオトラルを攻撃させ、数ヶ月の包囲戦の末にオトラルは陥落、オトラル事件の責任者である太守イナルチュクは捕らえられ、後にサマルカンドでその目と耳に溶けた銀を流し込まれて殺された。<間野英二『中央アジアの歴史』新書東洋史⑧ 1977 講談社現代新書 p.140~>
このオトラル事件はチンギス=ハンがホラズム遠征を行った理由としてあげられており、有名であるが、偶然の出来事と言うよりは、中央アジアの覇権をねらう両者にとって避けられないととらえていたのであろう。事実、チンギス=ハンは事件の数年前から西方遠征を想定し軍備を整えていたという。
その後のマーワラーアンナフル
ホラズムの統治していた地域はその中心部マーワラーアンナフルなど大半がチャガタイ=ハン国が支配した。しかしイラン高原からメソポタミアはイル=ハン国が支配した。北方からはキプチャク=ハンの勢力も伸びてきて、争った。チャガタイ=ハン国が分裂するなど弱体化した中から、14世紀にはティムール帝国が登場、その崩壊後は、ウズベク人の三ハン国のひとつ、ヒヴァ=ハン国が1512年に成立する。