ガズナ朝
10世紀、アフガニスタンのガズナを都とした、トルコ系イスラーム王朝。サーマン朝の地方総督であったトルコ系のマムルーク(奴隷出身の軍人)が建国。11世紀はじめ、マフムードはたびたび北インドに遠征し、イスラームのインド進出の先駆となったが、それは略奪が主な理由であり、恒常的にインドを支配することは無かった。マフムードのもとでイラン・イスラーム文化が保護されたが、その死後、アフガニスタンにはゴール朝が起こり、ガズナ朝はパンジャブ地方を支配するのみとなって12世紀末に滅亡した。
ガズナ朝
ガズナ朝の成立年代 山川出版『詳説世界史』の新課程版(2024年刊)では、ガズナ朝の年代は、977~1187年となっている。旧版は962~1186とされていた。ただし、その成立年代は、962年のままのものもまだ多い。こだわることはないが、次のような事情があるようだ。962年は、サーマーン朝の親衛隊長だったアルプテギンが、ガズナで事実上の独立を果たした年(ヨーロッパでは962年にオットー大帝の戴冠)。彼は翌年に没し、そのまた奴隷であったセブクテギンが後におされて後継者となった。実質的な建国者はセブクテギンであり、彼の即位年が977年だった。つまり、ガズナ朝の成立は、形式的には962年、実質的には977年と言うことになろう。ガズナ朝の成立年代や、アルプテキン、セブクテギンの名は入試で問われることはまずないので覚えておく必要はないが、ガズナ朝が10世紀の末にアフガニスタンに興り、次のマフムードがイスラーム政権として初めてインド北部に侵攻したことを押さえておこう。
ガズナのマフムード
セブクテギンの子のマフムード(在位998~1030年)は、ガズナ朝の全盛期をもたらし、アフガニスタン、イランを平定して、1008年にはさらにカイバル峠を越えて、インドの北西部パンジャーブ地方に進出した。さらにインド内部に前後17回も出兵し、ヒンドゥー教のラージプート諸侯と戦い、1018年には都カナウジを攻略し、北インドのプラティーハーラ朝を滅ぼした。彼は、「ガズナのマフムード」と云われて、インドのヒンドゥー教徒に記憶されている。しかし彼のインド遠征は、もっぱら財宝の略奪を目的としており、ガンジス流域の北インドを恒久的に支配しようとするものではなかった。
パンジャーブだけの支配となる
1030年、マフムードが死ぬと後継を巡って内紛が生じ、弱体化した。1040年、西方のセルジューク人に敗れて王国の西半分を失うと、それまでガズナ朝に従っていたトルコ系やアフガン系の豪族が各地で自立し、その中のゴールから出たゴール朝がアフガニスタンで自立した。(引用)ゴール朝がアフガニスタンを支配するようになると、これに押し出されたガズナ朝はマフムードの死後約125年にしてラーホールを都とするパンジャーブ地方のみの支配となった。パンジャーブ地方にガズナ朝が残ったことは、その後のムスリム軍事業団による北インド侵攻に足場を用意したことになり、その歴史的意義は大きい。<佐藤正哲/中里成章/永島司『ムガル帝国から英領インドへ』世界の歴史14 中央公論新社 1998 p.26-27>
ガズナ朝の衰退
しかし、ガズナ朝は、専ら関心をアフガニスタンに向け、インドに目を向けることはなかった。国境を接する北インドのヒンドゥー系であるラージプート諸侯もイスラームの侵攻を受けることがなかったので、相互抗争にふけっていた。アフガニスタンでは1163年にゴールに興ったゴール朝が徐々に勢力を拡大し、1173年にはガズナを占領した。ゴール朝は西のホラズムに備えながら、東のパンジャーブのガズナ朝の征服に乗り出し、1186年、ガズナ朝はゴール朝に滅ぼされた。
その滅亡年、1186か1187年かの詮索も意味がなさそう。1040年にはセルジューク朝と戦って大敗、ホラーサン地方を失い、アフガニスタンは1173年にゴール朝によって首都ガズナを奪われ、パンジャーブのみの地方政権となっていた。ガズナ朝が先鞭をつけたイスラーム政権の北インド支配は、次のゴール朝によって恒常化し、さらにデリー=スルタン朝、ムガル帝国へと続くことになる。 → インドへのイスラーム教の浸透
ガズナ朝の文化
ガズナ朝のマフムードは文化を奨励し、『シャーナーメ』(王書)を書いた詩人フィルドゥシーを保護し、イラン文化の発展に寄与した。「ガズナのマフムード」は学者や文化人を保護したことで著名である。また都市ガズナはインド人の技術者を使役した宮殿やモスクが建設された。マフムードの遠征に従ってインドにやってきたムスリムの文人アル=ビールーニーはサンスクリット語を学び、ヒンドゥー教学に通じてインド文化全般を解説する『インド誌』を残している。
(引用)しかし、このことからマフムードが彼らを尊敬し、その仕事と作品を理解し評価していたとは思えない。金銀財宝に執着する彼の猛烈な物欲から推し量るならば、それは「集めた」学者や文化人とその作品からなる「蒐集物」でガズナを飾りたいという彼の蒐集欲と権力の誇示にゆらいするというべきであろう。<佐藤/中里/永島『前掲書』 p.26>