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イスファハーン

イランのサファヴィー朝のアッバース1世が建設し1597年に遷都した都。「世界の半分」といわれるほど繁栄した。

 エスファハーンとも表記する。イランサファヴィー朝全盛期のシャー(王)、アッバース1世が建設した新しい都。タブリーズから1597年に遷都した。「王の広場」を中心に、「王のモスク」、バザール、宮殿、神学校が建設され、貿易が奨励されたので世界の商品が集まり、「世界の半分」と称される繁栄を謳歌した。とくに「王のモスク」は青色のタイルで装飾された美しいドームをもち、イラン建築の粋といわれる。なお、1979年のイラン革命で「王」はいなくなったので、現在は正式にはそれぞれ「イマームの広場」「イマームのモスク」と改称された。
 アッバース1世は、新都イスファハーンの城壁の外側に新ジョルファという町を作り、オスマン帝国に対抗してアルメニア人の難民を受け入れて居住させ、アルメニア商人に中国、イラン、ヨーロッパの絹貿易を委託した。アルメニア商人は各地のアルメニア人通商網を利用して広範囲に活動した。またアルメニア人は、アッバース1世の王宮で官僚として仕え、その中央集権体制を支えた。
イスファハーン

イスファハーン全景 Wikimedia commons

アッバース1世による建設

 サファヴィー朝第5代の君主、アッバース1世(在位1587~1626)は、様々な内政、軍制改革を行い、領土を回復した。領土の各地で道路や橋の整備を進め、主要な道沿いには一定距離ごとにキャラバンサライを建てるなど数々の建設事業を行った。今日のイランで、少し古い建物の起源をイラン人に尋ねると、ほとんど例外なく「シャー・アッバースの時代だ」という答えが返ってくるほどである。彼が行った事業のなかで最も規模が大きく重要なのが、新首都イスファハーンの建設だった。<羽田正『増補モスクが語る世界史――建築と政治権力』2016 ちくま学芸文庫 p.227>
(引用)彼は、従来から存在していたイスファハーンの旧市街と町の南を流れるザーヤンデルードの間の水と緑の豊かな土地を開発し、全く新しい町作りを始めた。都市計画のポイントは、トルコ系遊牧民に特徴的な水と緑をこよなく愛するという心性を色濃く持った王やその側近が、快適に生活できるような町の建設だった。王やその一族の居住区域では、水と緑に溢れた庭園がまず作られ、その中にあずまや風の宮殿が点在するような形に整えられた。広いまっすぐな道が縦横に走り、その間の大きな区画に重臣たちが広い庭を持った邸宅を建てた。このため、新市街は、家がたて込み、緑の少ない伝統的な都市形態を持つ旧市街とは対照的な都市景観を有することになった。<羽田正『前掲書』 p.227>

イスファハーンの大虐殺

 イスファハーンは1722年にアフガニスタンから侵攻したアフガン人のギルザイ族によって攻撃され、破壊された。
 アフガン人の侵攻によるサファヴィー朝の滅亡の際は、6ヶ月間包囲され、人々は犬、猫、ネズミ、死人の肉などを食べ、およそ8万人が殺されたという。<宮田律『物語イランの歴史』1997 中公新書 p.95> → アフシャール朝

世界の半分

イランのサファヴィー朝の都、イスファハーンを讃えた言葉。

 イランのサファヴィー朝の都(1597年~1722年)として繁栄したイスファハーンは、アッバース1世のもとで繁栄し、そのバザール(市場)には世界中から商品が集まったので、「世界の半分」と言われた。イスファハーンには隊商の宿キャラバンサライがあり、交易の中心であった。現在その跡はホテルになっており、その中庭はキャラバンサライだった頃と同じように使われている。イスファハーンは、イランの伝統工芸であるペルシア絨毯の産地としても知られる。絨毯や刺繍、金属細工、彩画陶器(クバチ焼)などの工芸品が、ペルシア湾のバンダル・アッバース港からヨーロッパに多数輸出された。<宮田律『物語イランの歴史』中公新書 2002 p.82~91>

王の広場/イマームの広場

イランのサファヴィー朝の都イスファハーンの中心の広場。アッバース1世が建設した。

 本来は「王の広場(メイダーネ=シャー)」と言われた。イランのサファヴィー朝全盛期のアッバース1世が1597年に造営した新都イスファハーンの中心部にある広場で、縦約500m、横約160m。その南に「王のモスク(現在はイマームのモスクという)」がり、周囲には宮殿や神学校、バザールなどが建造された。現在はその大部分が池になっており、夏には噴水が周囲に涼感を与えている。サファヴィー朝時代にはここで王(シャー)の外国使節への謁見や観兵、さらには処刑や大道芸が行われ、レスリングや古式体操の競技場場にもされていた。1979年のイラン革命でサファヴィー朝の王政が倒されてからは名称が「イマームの広場」と改称された。<宮田律『物語イランの歴史』中公新書 2002 p.82~83>

王のモスク/イマームのモスク

イランのサファヴィー朝の都イスファハーンにアッバース1世が建造したモスク。

イマームのモスク
イマームのモスク
 本来は「王のモスク」(シャーのモスク)と言われたが、1979年のイラン革命で王政が倒され、王(シャー)がいなくなってからは「イマームのモスク」が正式名称になった。イマームとはイスラーム教の指導者のこと。もとはサファヴィー朝全盛期の王アッバース1世イスファハーンの中心部の王の広場に面し、1590年から1616年の間に建設した。透き通るようなファイアンス焼(スズ釉陶器)の青のタイルで装飾されている。イスラーム世界で最も美しいモスクの一つとされている。 → アラベスク

Episode 「王のモスク」にこだわる市民

 イスファハーンの「王の広場」「王のモスク」は、イラン人に特別な民族的誇りを与えるのかもしれない。イラン革命後、「王(シャー)」という言葉が使えなくなり、それぞれ「イマームの広場」「イマームのモスク」という名称に変えられた。1980年代の終わりにイランを訪問した人の話では、イラン市民はあまりに宗教色の強いイラン革命への疑問と、過去へのノスタルジーからか、「王の広場」という言い方をやめなかったという。<宮田律『物語イランの歴史』中公新書 2002 p.83~84>