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ジェノヴァ/ジェノヴァ共和国

イタリアの地中海岸の商業都市。十字軍時代から都市共和国として繁栄した。

 地中海に面したローマ時代からの港市で中世には都市共和国として繁栄した。10世紀末にはイスラームの脅威にさらされたが、城壁を修築して防衛に成功。12世紀の十字軍時代にはその出港地となり、フランドル地方の羊毛製品を輸出し、ピサやヴェネツィアと繁栄を競った。特に東地中海の通商権をめぐってヴェネツィアと激しく抗争、エーゲ海域のレスボス島、キオス島、黒海のクリミア半島などに進出した。新興の商人層と旧来の貴族層が、それぞれゲルフギベリンとに分かれて対立していたが、1339年に中産市民が貴族政権を倒して統領(ドージェ)を選出するという共和政を樹立した。

ヴェネツィアとの抗争に敗れる

 ヴェネツィア共和国との競争では、1380年キオッジアの海戦で敗れて後退し、その後、ミラノやフランスの干渉を受けるようになる。15世紀に入ってオスマン帝国が地中海東部を支配するようになって東方貿易が衰退したことを受けて、ジェノヴァ商人は盛んにスペイン王室に食い込んで、大航海時代に活躍した。コロンブスもジェノヴァ人であった。しかし、大航海時代の進行によってヨーロッパ経済の中心が大西洋岸に移行した、いわゆる商業革命によって、かつてのような繁栄は遠ざかっていった。15世紀末から16世紀にかけてはフランスの支配を受け、かつての地中海貿易の繁栄は失われたが、18世紀からは造船業などの近代的産業も興り、一時共和国としても復興した。

ジェノヴァ共和国の終焉

 しかし、フランス革命後に登場したナポレオンは北イタリア支配をめざし、その一環として、フランス軍が1797年にはジェノヴァを占領、その周辺をリグリア共和国として支配した。さらにナポレオンは皇帝になると、翌1805年、リグリア共和国をフランス帝国の一部に編入し、直轄支配することとなった。 → ナポレオンのイタリア支配
 そのナポレオンが諸国民戦争に敗れ失脚し、ウィーン会議が開催されると、その理念はヨーロッパの秩序をフランス革命前に戻るという正統主義が提唱されたが、ジェノヴァとヴェネツィアの両共和国は復活することはなかった。結局、ウィーン会議を経て、ジェノヴァはサルデーニャ王国に併合されることとなった。その後、サルデーニャがイタリア統一を推進し、1860年にイタリア王国が成立し、ジェノヴァはその一都市となった。
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