印刷 | 通常画面に戻る |

皇帝党/ギベリン

中世イタリアで神聖ローマ皇帝を支持する勢力で、ギベリンといわれた。ローマ教皇を支持する教皇党(ゲルフ)と対立した。

 11世紀の叙任権闘争に始まるローマ教皇と神聖ローマ皇帝の対立は、12世紀にも持ち越し、その頃からイタリア国内の都市国家(コムーネ)は、教皇を支持する陣営と皇帝を支持する陣営とに分かれて争うようになった。教皇党(ゲルフ)と皇帝党(ギベリン)に分かれて争うようになった。
 12世紀~14世紀のイタリアで明確になった二つの陣営で、ローマ教皇を支持する勢力を教皇党(ゲルフまたはグェルフ)と言ったのに対して、神聖ローマ皇帝を支持する勢力である皇帝党をギベリンといった。

ギベリンの意味と支持者

 神聖ローマ皇帝を支持する勢力をギベリンという。ギベリンは、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)シュタウフェン家の居城ヴァイブリンゲンに由来し、そのイタリア語の訛ったものである。皇帝派=ギベリンを構成したのは、大都市に対抗する中小都市(ピサ、ヴェローナなど)や、農村部の封建諸侯(貴族)であった。大都市とその上層市民である大商人たちは、神聖ローマ皇帝のイタリア支配に反発していたので、反皇帝の立場から、教皇支持に回ったが、中小都市や封建領主はむしろ、強力な皇帝権力によって保護されることを望み、皇帝を支持した。彼ら皇帝党(ギベリン)は、大都市から強力な皇帝による統治を期待していたといえる。

都市内部のギベリン

 都市ではフィレンツェ、ミラノ、ボローニャなどが教皇党(ゲルフ)であったが、それらの都市内部にも対立があり、その対立が教皇党・皇帝党と色分けされることもあった。都市の内部でも、おおよそ、封建領主であった者が都市に移住し、貴族として最初の支配層を形成した人びとは皇帝党であることが多かったが、次第に都市の商工業が発達し、新興市民層が大商人層を形成すると、彼らは教皇党として保守的な貴族層であるギベリンと対立した。

ゲルフとギベリンの違い

 教皇党(ゲルフ)と皇帝党(ギベリン)の違いはかならずしも一定しているわけではなく、政治情勢で複雑に変化している。単純に色分けすることは無理があるが、一応のまとめをすると、教皇党=ゲルフはミラノ、ボローニャ、ナポリ、フィレンツェなど大都市におおく、都市の内部の支持層は主として商工業者、新興商人(大商人)出会ったのに対して、皇帝党=ギベリンはヴェローナ、ピサ、シエナなど中小都市に多く、支持層は封建領主、貴族でありというすることができる。

ギベリンの後退

 1250年には、フィレンツェでゲルフである商工業者によって、ギベリンである貴族が追放されている。全体的には有力都市ではローマ皇帝による支配に反発する傾向が強まり、教皇党が次第に優勢になり、1254年シュタウフェン朝の断絶による大空位時代の始まり、さらに1268年にローマ教皇の意を受けたフランスのアンジュー家(シャルル=ダンジュー)がシチリア島を支配するようになってから、皇帝党は衰退する。
印 刷
印刷画面へ