十字軍/十字軍運動
11世紀末~13世紀末までのキリスト教世界の膨張運動の一つ。1095年のクレルモン宗教会議で教皇ウルバヌス2世によって提唱され、1096年の第1回から、一般に1270年の第7回までとされる。一時はイェルサレム王国を建てるなど聖地回復に成功したが、結局はイスラーム側の反撃によって失敗した。東方貿易の活発化、イスラーム文化の流入など、中世ヨーロッパ社会を大きく変動させる一因となった。
1095年11月27日にクレルモン宗教会議で、ローマ教皇ウルバヌス2世が布告し、キリスト教徒に呼びかけたことによって始まった。ローマ教皇は、当時盛んだった巡礼の目的地である聖地イェルサレムがイスラーム教徒のセルジューク朝に支配されたことに対しての「聖地回復」という宗教的目的での十字軍の派遣を提唱した。
地図 十字軍時代 主な十字軍の経路
- 第1回十字軍
- 第3回十字軍
- 第4回十字軍
- 第6回十字軍
- 第7回十字軍
- 東方植民
- レコンキスタ
- ラテン帝国
- イスラーム圏
十字軍の意味
「十字軍(Crusades)」とは、参加した兵士が胸に十字架の印を付け「聖戦」と考えられたからである。参加した人びとの共通する動機は宗教的情熱であった(少なくとも当初は)が、それを呼びかけたローマ教皇、運動に参加した国王、諸侯、商人、一般民衆はそれぞれ違った思惑をもって参加した。ローマ教皇にとっては、当時展開していたローマ皇帝との叙任権闘争を有利にする意図が強かった。また、ビザンツ皇帝の呼びかけに応えることで1054年に互いに破門し合って東西に分離したギリシア正教(東方教会)との再統合に優位に立つことも考えたであろう。十字軍の影響
第1回十字軍は聖地の回復に成功し、その地にイェルサレム王国を建設し、キリスト教徒も多数移住した。ローマ教皇の権威は絶大なものとなり、12~13世紀のローマ教皇の最盛期>を出現させた。しかしまもなくイェルサレムはイスラーム側に奪回され、さらに13世紀初めの第4回十字軍は商業的な目的からコンスタンティノープルを攻撃、占領し、本来の目的から大きく外れ、十字軍運動が変質して、経済的目的が強くなる。それ以後の十字軍は一時を除いていずれも聖地回復に失敗した。その結果、教皇権の衰退につながっていく。一方でむしろ十字軍運動に伴ってイスラーム圏との交易が始まり、東地中海岸での東方貿易が盛んになると言う経済的結果がもたらされ、そこからヨーロッパの商業の復興、北イタリア諸都市の勃興というおおきな変動が起きる。文化の面でもイスラーム圏との交流はヨーロッパ中世のキリスト教世界に大きな刺激となり、12世紀ルネサンスを経て、次の14世紀のルネサンスを生み出すきっかけとなった。十字軍運動の背景
この運動の背景は、11世紀から始まる三圃制農業などに見られる農業生産力の向上による人口増加に伴う、キリスト教世界の膨張運動であったこと、また「商業ルネサンス」にともなう交易圏の拡大の要求があったことをあげることが出来る。同時期のヨーロッパキリスト教世界の膨張運動には、イベリア半島におけるレコンキスタ、東ヨーロッパにおけるドイツ人の東方植民があげられる。 → 西ヨーロッパ中世世界の変容ビザンツ皇帝と十字軍
ビザンツ帝国領小アジアへのセルジューク朝の進出は、1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ軍が敗れてから本格化した。ローマ教皇に十字軍の派遣を要請したビザンツ帝国皇帝とはアレクシオス1世。アレクシオス1世がローマ教皇に援助を要請した理由は、セルジューク朝からの聖地奪回であったが、実際にはイェルサレムは637年にイスラーム勢力の支配下に入っており、キリスト教徒の巡礼も認められていたので、それは支援要請の口実にすぎなかった。ビザンツ皇帝のねらいは自国領の小アジアに侵入したセルジューク朝の勢力を排除するために西ヨーロッパキリスト教軍の支援を得ることにあった。アレクシオス1世の要請を受けて十字軍の派遣を呼びかけたウルバヌス2世のねらいも、聖地奪回にあるよりは、この機会に東西教会を統一し、ローマ教会の主導権を回復することであった。両者の思惑の違いは、早くも第1回十字軍で表面化した。コンスタンティノープルに到着した十字軍に対してアレクシオス1世は臣従の礼をとることを要求し、十字軍が回復する領土はすべてビザンツ帝国に返還せよと命じたのである。十字軍は反発したがビザンツ軍の協力は必要だったので渋々その要求に屈した。しかしその後は十字軍とビザンツ軍は共同歩調がとれずにことごとく反目し、やがてビザンツ軍は戦線を離脱し、十字軍は単独で戦わざるをえなかった。<鯖田豊之『世界の歴史9・ヨーロッパ中世』1969 河出書房>
十字軍運動の展開
11世紀末から前後7回に及ぶ十字軍派遣の経緯をまとめると次のようになる。
十字軍の回数
一般に7回とされることが多いが8回と算える場合もある。その場合は、1218年に行われて失敗したものを第5回とする。なお、十字軍という名称はその後もたびたび現れ、フランス王が南フランスの異端派を鎮圧したアルビジョワ十字軍などがある。十字軍国家
第1回の十字軍以来、セルジューク朝などのアラブ側から奪った征服地にいくつかの「十字軍国家」が建設された。それには次のようなものがあるが、ヨーロッパの封建制度を導入しイェルサレム王国の国王が他のエデッサ伯、アンティオキア公、トリポリ伯を封建領主として封土を与えるという形をとっていた。12世紀中頃からアラブ側の反撃を受けて領地を縮小させたが、イェルサレム王国は約200年存続した。- エデッサ伯国 エデッサ伯国は、1098年、十字軍の指揮官フランドル伯ボードワン(フランス人)が、アルメニア人の君主トロスの養子となり、トロスの死後、建国した(ボードワン1世)。エデッサはユーフラテス川上流のメソポタミア地方の北辺(ジャジーラ)にあたり、エデッサ伯国は十字軍国家の最も北に位置する国家として、セルジューク朝の勢力と対峙した。イスラーム勢力は1144年、ザンギーがエデッサの奪回に成功した。それに対して第2回十字軍が起こされる。
- アンティオキア公国 1098年、アンティオキアを占領した十字軍がボエモン(ボエモント)を君主として建てた国。十字軍の占領した最大の都市がアンティオキアであった。その後もイスラーム勢力の反撃を抑え、170年にわたってキリスト教国として存続したが、1268年にマムルーク朝のバイバルスによって破壊され、消滅した。
- イェルサレム王国 1099年1月から7月に及ぶ長期の包囲戦の結果、十字軍は聖地イェルサレムに入城、虐殺と略奪をおこなった後、イェルサレム王国を建国した。当初、ゴドフロワ=ド=ブイヨンが「聖墳墓教会の守護者」と称したが、その戦死後、弟のボードワンが国王と称した。イェルサレム国王はエデッサ伯、アンティオキア公、トリポリ伯をそれぞれ封建領主として君主権を行使した。1187年にサラーフ=アッディーンによってイェルサレムを奪還されてしまったため、領土を縮小させ、1291年に最後の拠点アッコンが陥落して事実上消滅した。なお、東地中海に浮かぶキプロス島にはイェルサレム王を名乗る地方政権が存続した。
- トリポリ伯国 トリポリは地中海に面した現在のレバノンに含まれる。このシリアのトリポリは、リビアのトリポリとは違う。十字軍のイェルサレム攻撃の司令官であったレイモンが、トリポリを包囲し、1109年に占領してトリポリ伯と称し、建国した。その後伯位をその子孫を継承した。
イスラーム世界の情勢
イスラーム教徒(ムスリム)は、十字軍を「フランク」あるいは「フランキ」と称した。十字軍兵士が自らをフランク人と称したことにも依るが、アラブから見た西欧はフランク王国以来の観念が続いていた。それに対してビザンツ人はローマに由来する「ルーム」という呼び名で区別されていた。十字軍を迎えたイスラーム世界の情勢はどうであったか。セルジューク朝はアッバース朝カリフからスルタンの地位を認められバグダードを治めていたが、1077年には小アジアのアナトリア地方にルーム=セルジューク朝が分立、その他の内紛が生じ、11世紀末には衰退が始まっていた。またエジプトのファーティマ朝は同じイスラームでもシーア派の中のイスマーイール派を信奉する王朝で、スンナ派のセルジューク朝とは対立していた。このようなイスラーム世界の内部対立は、十字軍にとって有利に働き、第1回十字軍が成功したのもそのような理由があると考えられる。しかし、12世紀後半になるとエジプトにアイユーブ朝が台頭、スンナ派の統一政権を樹立したサラーフ=アッディーンが1187年にイェルサレムを奪還してからは、イスラーム勢力による反撃が本格化する。十字軍はなおも13世紀まで7回(または8回)起こされるが、いずれも聖地奪回は果たせず、1291年のマムルーク朝によるアッコンの陥落をもって終わる。アラブ世界に侵入した十字軍の実態はどのようなものであり、アラブ側がどのようにたたかったか、については、アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』を参照。
十字軍とモンゴル帝国
なお、13世紀にはユーラシアの東方からモンゴル帝国が勃興し、1236年のバトゥのヨーロッパ遠征、1253年のフラグの西アジア遠征が、それぞれキリスト教世界とイスラーム教世界に大きな衝撃を与え、キリスト教世界・イスラーム世界・モンゴル遊牧世界という3つの大きな文明圏が抗争する情勢となった。そのような中で、にキリスト教側がモンゴルとの提携を真剣に模索することとなった。1243年のローマ教皇インノケンティウス4世によるプラノ=カルピニの派遣、53~55年のフランスのルイ9世の時のルブルックの旅行などがそれである。このように、十字軍運動は、13~14世紀に活発になったユーラシアの東西交流の背景となった。十字軍(第1回)
1096年に派遣された第1回十字軍は、イェルサレムを占領し、イェルサレム王国を建国した。民衆のなかに自発的に起こった運動は、悲惨な結果に終わった。
イェルサレム占領
当時イェルサレムはセルジューク朝の代官が治めていたが、1098年、アンティオキアの陥落の知らせを受けたエジプト・カイロのシーア派国家ファーティマ朝は、スンナ派セルジューク朝の危機に乗じて出兵し、1098年7月、40日間の攻城の末、イェルサレムを占領した。つまり、十字軍が攻撃した時のイェルサレムは、ファーティマ朝の支配下にあった。ファーティマ朝は十字軍がイェルサレムに迫ると、単独では防衛は困難と考え、ビザンツ帝国に援軍を要請したが、その到来よりも先に十字軍が来襲した。ファーティマ朝側は講和条件として武器を持たない巡礼者のイェルサレム入城を許可する旨を伝え攻撃を回避しようとした。しかし、十字軍側はその提案を拒否、1099年5月に宣戦布告し、7月15日に陥落させた。その地を占領した十字軍はゴドフロワを国王としてイェルサレム王国を建てた。
十字軍によるイェルサレムの大虐殺
イェルサレムの城内に突入した十字軍兵士は街路に逃げまどう非戦闘員も含めて大虐殺を行い、略奪をほしいままにした。アラブ側の史料に拠れば虐殺・略奪は1週間に及び、7万人以上の人が殺され、岩のドームの財宝は空になった。キリスト教側の年代記類もこれらの残虐行為を別に隠そうともせず淡々と語っている。サラセン人という総称で、アラブ人・トルコ人・エジプト人・エチオピア人などのイスラーム教徒が殺されただけでなく、ユダヤ人も例外でなかった。7月16日の朝、十字軍兵士は市内の東北地区で多数のユダヤ人を駆り出し、中心街のシナゴーグにとじこめ、扉を外から密閉して火を放ち、全員を焼き殺した。また、イスラーム教徒は金貨を飲み込んで隠しているといううわさがあり、十字軍兵士は捕らえたイスラーム教徒の腹を割いてしらべたり、殺したうえで死体を山のように積み上げ、火をつけて灰にして金貨を探そうとしたという。<橋口倫介『十字軍』岩波新書 P.99-107、アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』などによる> → イェルサレムの項を参照民衆十字軍
正規の第1回十字軍と並行して、民衆の自発的な十字軍が組織された。その指導者は隠者ピエールといい、宗教的情熱からイェルサレムを目指した。その実態は新たな生活の糧を求めて巡礼熱に動かされた農民や都市の貧民であった。イェルサレムを目指して小アジアを進むうち、統制のない彼らはトルコ軍に討たれ、残ったわずかが正規軍に合流してイェルサレムに入った。この動きは、十字軍運動が民衆の自発的運動であった側面を示している。Episode 民衆十字軍の悲惨
(引用)戦争熱を煽るために、おそらく歴史上初めて、プロパガンダか用いられた。教皇の使者は、フランスとドイツ中に、トルコ人の残虐性にっいての荒唐無稽な物語を広め、民衆の怒りをかき立てた。21世紀の私たちも、こうした情報に対しては疑ってかかる必要かあろう。しかし、11世紀の民衆には、こうした情報に疑念を抱く理由はまったくなかった。彼らは正式の軍隊の到着を待たずに、大集団を作って徒歩で聖地へと向かい、「異教徒ども」からエルサレムの聖墳墓教会を取り戻した。
これは注目すべき現象であり、キリスト教がどれほど深く普通の人々の生活に組み込まれているかを示すものであった。それはおそらく史上初の「インターナショナルな」運動であった。しかし、それは悲惨な結果をもたらした。五つの大集団(隠者ピエールの呼びかけに答えて結成された「民衆十字軍」のこと)がヨーロッパ中をさまよい歩いた。そのうちふたつの集団かハンガリーヘと向かい、現地のマジャール人の外見がヨーロッパ人と異なっていたため、異教徒に違いないと決めつけ、彼らを殺戮し始めた(実際は、彼らはキリスト教に改宗したばかりだったか)。マジャール人の側も報復に出て、ふたつの集団を全滅させてしまった。三番目の集団も後に同じような末路をたどった(ラインラントでユダヤ人コミュニティを壊滅させた後のことであったが)。残りのふたつの集団は、実際にコンスタンティノープルに到達したものの、トルコ軍によって殲滅された。<クリス・ブレイジャ/伊藤茂訳『世界史の瞬間』2004 青土社 p.89>
ユダヤ人迫害の始まり
十字軍運動が盛り上がったのと同じ時期に、ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害が始まっている。第1回十字軍が派遣されたと同じ1096年5月、ドイツのライン地方の都市でユダヤ人居住区のシナゴーグが襲撃され、多くが殺害されている。イェルサレムを奪回しようとする今、ユダヤ人のために血を流すことになったイエスに復讐しよう、ユダヤ人は十字軍を利用して儲けようとしている、などとと煽動された民衆が襲撃したのだった。十字軍はイェルサレムではユダヤ人を殺しているが、ヨーロッパでも内なる敵ユダヤ人を殺害した。中世ヨーロッパでのユダヤ人に対する本格的な迫害は、このように十字軍運動と連動して始まっている。<セーシル=ロス『ユダヤ人の歴史』1961 みすず書房 p.130-131>十字軍(第2回)
1147年にフランス王ルイ7世などが主力となって遠征したが、ダマスクス攻略に失敗した。
第2回十字軍は陸路を取り、コンスタンティノープルを経て、小アジアに入り、苦戦の後、アンティオキアに入った。しかし、エデッサ伯国回復には向かわず、イェルサレム王国に向かい、ルイ7世、コンラート3世らは聖地巡礼の目的は果たした。ついでイスラーム勢力側の拠点ダマスクスを攻撃することとなり、1148年に総攻撃を行ったが、ザンギー朝の激しい反撃を受けて撤退、ルイ7世らは海路、シチリア島を経て帰国し、遠征は失敗した。
そもそもこの遠征軍には、フランス王ルイ7世が王妃エリアノールを帯同するなど、さながら王宮が移動していく観があり、莫大な費用は本国フランスの財政を圧迫し、反面アラブとの戦いでは苦戦が続き、成果が上がらなかった。第2回十字軍の失敗は、フランス王・ドイツ王とビザンツ皇帝の思惑の違い、国王ルイ7世と王妃エリアノールの仲違い(後に離婚してエリアノールはイングランド王ヘンリ2世と再婚)、十字軍と現地十字軍国家の意見の違いなど、十字軍側の問題点が大きかったが、イスラーム教側には従来のセルジューク朝にと異なりザンギー朝のように明確に十字軍と戦う意志を持つようになったことが大きい。それを象徴するのが、サラーフ=アッディーンの登場であった。
十字軍(第3回)
1189年に派遣された第3回は英仏独三国の君主が参加したが、内紛とサラーフ=アッディーンの反撃のために聖地奪回は出来なかった。
1189年、遠征が開始されたが、フリードリヒ1世(バルバロッサ)は小アジアで事故死、ドイツ兵も大半が引き揚げた。仏王と英王は本国で対立していたので仲が悪く、ようやくアッコンを奪回した後、フィリップ2世は本国に引き揚げてしまった。単独で戦うこととなったリチャード1世は聖地回復をすることはできず、サラディンとの間で3年間の休戦協定を結び、1192年遠征を終えた。聖地奪回は出来なかったが、平穏に聖地を巡礼することを可能にした。
サラディンとの講和条約
1192年9月にリチャード1世とサラディンの間で結ばれた講和条約は、・十字軍はティルスからヤーフェまでの海岸地方を確保するが、イェルサレムを含む残りの領土はサラディンの主権を認める。
・キリスト教徒はスルタン(サラディン)から通行証をもらい、聖地に巡礼し、キリストの墓に祈る。
という内容のものであった。サラディンは講和にあたってリチャードをイェルサレムに招いたが、彼は征服者として入城しようと思っていた町に客としていくことは不本意であったため、結局調印1ヶ月後に、彼は聖墳墓にもサラディンにもまみえることなく、中東を去った。<アミン・マアルーフ/牟田口義郎・新川雅子訳『アラブの見た十字軍』1986 リブロポート p.324>
十字軍(第4回)
1202年に始まった第4回十字軍はヴェネツィア商人を中心に編制。1204年にその要請でコンスタンティノープルを占領。ラテン帝国を建てた。十字軍の本来の目的から大きく逸脱した。
コンスタンティノープル占領とラテン帝国建設 インノケンティウス3世は激怒し、十字軍を破門するという前代未聞の事態となったが、十字軍は目前の利益をあきらめず、1204年、コンスタンティノープルを攻撃し占領、掠奪した。さらに周辺の都市やエーゲ海の島々を占領した十字軍は、コンスタンティノープルを中心にラテン帝国を建設する。この成功を見たインノケンティウス3世は、破門を解いて十字軍を祝福した。
東西教会の最終的分裂 1054年にキリスト教のローマ教会とコンスタンティノープル教会は教義上の対立から互いに破門しあい、キリスト教会の東西分裂に至っていたが、それでもまだ交渉は続き、修復の試みがなされていた。しかし、この第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建設したことによって両者の対立は修復困難な状態となった。占領時のラテン人による強奪、殺戮、放火などの非人道的残虐行為だけでなく、ラテン帝国によってコンスタンティノープル総主教は廃位され、教会や修道院の財産が没収されるなどの東方教会への弾圧が加えられ、東方教会(ギリシア正教)側のローマ教会への不信は憎悪にまで高まってしまった。
Episode 第四回十字軍が持ち去ったもの
1204年4月13日、十字軍はコンスタンティノープルを占領し、教会の聖遺物(キリストの十字架の台木、その時流れた血痕など)が持ち去れた。現在、ヴェネツィアの聖マルコ寺院正面の四頭立ての馬車の銅像も、この時コンスタンティノープルから奪われたもの。この後、1212年には少年十字軍という運動があって、それは悲劇的な失敗に終わっている。また1218年に行われたジャン=ド=ブリエンヌの十字軍を第5回と数える場合もある。
十字軍(第5回)
1228年の第5回十字軍は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が主導。アイユーブ朝との交渉によって翌年、イェルサレムを回復した。
フリードリヒ2世のイェルサレム入城
1229年2月、一戦も交えることなくフリードリヒ2世とアイユーブ朝のスルタン、アル=カーミルとの間で合意文書が取り交わされた。フリードリヒ2世はイェルサレムと海岸に至るその周辺を獲得し、ムスリムはイェルサレムのイスラーム聖堂の集まっている聖域での行動の自由を確保した。その合意の成立した一ヶ月後に、フリードリヒ2世はイェルサレムに入城し、岩のドームその他のモスクを訪ね、その建築美を褒めた。十字軍(第6回)
1248年、フランス王ルイ9世が興した第6回十字軍はアイユーブ朝と戦い、ルイ9世自身が捕虜となる。
ルイ9世、モンゴルとの同盟を模索
1248年に第6回十字軍を起こしたルイ9世は、エジプト攻撃の前にキプロス島でその準備にあたった。1241年のワールシュタットの戦いでキリスト教世界に大きな脅威となっていたモンゴル帝国と提携し、イスラーム勢力を挟み撃ちにするという遠大な構想を抱いていたルイ9世は、キプロスにモンゴルの使節を迎え、交渉している。しかしこの時は、モンゴル側がその意図を理解することができず不成功に終わった。ルイ9世はこの第6回十字軍失敗後もモンゴルとの同盟の夢を捨てず、それが1253~55年のルブルックのモンゴルへの派遣であった。ルイ9世が願ったモンゴル軍の西アジア侵入はすでにフラグの遠征で始まっていたが、モンゴル軍とイスラーム軍の決戦は1260年のアインジャールートの戦いでモンゴル軍がマムルーク朝のバイバルスに敗れたために実現しなかった。十字軍(第7回)
1270年、第7回十字軍はフランス王ルイ9世がチュニスを攻撃したが失敗。最後の十字軍となった。
アラブから見た十字軍
キリスト教側が聖地回復を掲げて起こした十字軍は、アラブ側から見れば明らかな侵略であった。その後の千年に及び反西欧の怨念が残ることとなった。
(引用)西ヨーロッパにとって、十字軍時代が真の経済的・文化的革命の糸口であったのに対し、オリエントにおいては、これらの聖戦(ジハード)は衰退と反開化主義の長い世紀につうじてしまう。四方から攻められて、ムスリム世界はちじみあがり、過度に敏感に、守勢的に、狭量に、非生産的になるのだが、このような態度は世界的な規模の発展が続くにつれて一層ひどくなり、発展から疎外されていると思い込む。指摘の通り、現代でもイスラエルは新たな十字軍国家になぞらえられ、アラブの指導者はサラディンやイェルサレム奪回の栄光を口にする。21世紀が10年以上たっても、解決も道筋はついていない。そろそろ、西洋と東洋、キリスト教とイスラーム教という対立軸を克服し、互いが否定し合うのでなく、そのアイデンティティを認め合う時代ではないだろうか。しかし「そして疑いもなく、この両世界の分裂は十字軍にさかのぼり、アラブは今日でもなお意識の底で、これを一種の強姦のように受け止めている。」という著者の最後の一文の重みは忘れてはならないだろう。
以来、進歩とは相手側のものになる。近代化も他人のものだ。西洋の象徴である近代化を拒絶して、その文化的・宗教的アイデンティティを確立せよというのか。それとも反対に、自分のアイデンティティを失う危険を冒しても、近代化の道を断固として進むべきか。イランも、トルコも、またアラブ世界も、このジレンマの解決に成功していない。そのために今日でも、上からの西洋化という局面と、まったく排外的で極端な教条主義という局面とのあいだに、しばしば急激な交代が続いて見られるのである。<アミン・マアルーフ/牟田口義郎・新川雅子訳『アラブの見た十字軍』リブロポート p.399>