ローランの歌
中世フランスで生まれた騎士道物語。カール大帝の時代、イスラーム軍と戦った英雄ローランを主人公とする。
中世ヨーロッパで発達した騎士を主人公とした騎士道物語の1つ。カール大帝時代のイベリア半島におけるイスラーム勢力との戦いを舞台として、英雄ローランの活躍を物語っている。イギリスの「アーサー王物語」などとともに、騎士道物語の代表的な例であり、トゥルバドゥールのような吟遊詩人によって語り伝えられ、宮廷文化に花を添えた。
その成立は、一般的には11世紀末とされるが、長期にわたる口承詩人による伝承があり、大学の誕生やゴシック様式建築の流行などととともに12世紀ルネサンスといわれる新たな文化の動きの現れと捉えられている。
その成立は、一般的には11世紀末とされるが、長期にわたる口承詩人による伝承があり、大学の誕生やゴシック様式建築の流行などととともに12世紀ルネサンスといわれる新たな文化の動きの現れと捉えられている。
参考 英雄詩としてのローランの歌
(引用)とるに足りない出来事をさんざんもて囃すのは英雄詩の常道である。フランス語で書かれた『ローランの歌』は、西暦778年、ロンスヴォーでシャルルマーニュ(カール大帝)とサラセン人(イスラーム教徒)との間に起こった大合戦のことを語っている。ホメロスと同様、このフランス語の叙事詩を書いた詩人が何者かは分からないが、12世紀の十字軍はなやかなりし時代の人であることは確かである。ホメロスとちがって彼は読み書きができたし、年代記も利用できた。実際、作者はその類の書物を用いたとはっきり述べている。しかし、事実は次のとおりである。現実にあったロンスヴォーの戦闘は、ピレネー山中でシャルルマーニュ軍の小分隊と数名のバスク人襲撃隊のあいだに起こった小競り合いに過ぎなかった。それは重大でもなければ十字軍らしいものでもなかった。詩中に語られる十二名のサラセン人隊長とその四十万の軍勢はまったくの作り話だし、人名もドイツ名、ビザンティン名、あるいはでっちあげの名が入り混じっている。いや、ローランその人すら架空の人物として片付けてしまおうという強硬意見さえあるほどなのだ。だが、ともあれ『ローランの歌』はさまざまな記録文書に照合して調べることができるが、『イリアス』と『オデュッセイア』はそれができない。だから、歴史上の細かな事実に関する限りは、歪曲の過程を逆向きにたどって原型となった核を復元する方法がまったく存在しないのである。・・・<フィンリー/下田立行訳『オデュッセウスの世界』1994 岩波文庫 p.80>