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『イリアス』/『オデュッセイア』

いずれもホメロスの作とされる、ギリシアの英雄叙事詩。『イリアス』はミケーネ文明期のトロイア戦争を題材とし、『オデュッセイア』はその後の英雄オデュッセイアの放浪を描いている。

『イリアス』

 英語の表記ではイリアッド 。ギリシアのホメロスがつくったとされる英雄叙事詩。ミケーネ王が英雄たちを率いて、トロイア(トロヤ)を攻撃したトロイア戦争が物語られている。かつては純然たる神話と考えられていたが、1870年代のシュリーマントロイア遺跡発掘によって、ある程度事実を反映していることが判った。扱われている時代は、ミケーネ文明期のことであるが、物語の細部には暗黒時代からアーカイック期にかけての事実が述べられていると考えれ、口承されたものをホメロスが現在のような形にまとめたのは前8世紀ごろと思われる。いずれにせよギリシア最古の文学作品と言うことができる。これに続く物語が『オデュッセイア』で、いずれも文体は韻を踏まえた長編詩という形態をとっている。

『オデュッセイア』

 英語表記ではオデッセイ。『イリアス』と同じくホメロスの作とされており、その後編の物語となっている。トロイア戦争が終わって、英雄オデュッセイアが10年にわたる放浪の末、故国にもどり、王位に復するまでの物語。『イリアス』とともにギリシア最初の文学作品として重要である。

参考 『イリアス』と『オデュッセイア』の年代

(引用)「ホメロス」は「作者不詳」に当たるギリシア語の同意語ではなく、男の名であった。そして、それが彼をめぐるただ一つ確かな事実なのである。ホメロスとは何者であったか、どこに住んでいたか、いつ詩作をしたのか、といった問題にわれわれは確信をもって答えることができないし、その点は当のギリシア人にしても同じことだった。実のところ、われわれの読む『イリアス』と『オデュッセイア』が、一人ではなく、二人の詩人それぞれの作品である可能性もなしとしない。この二作品は、ギリシア中央部のボイオティアと呼ばれる地域に住んでいた詩人、ヘシオドスの諸著作と並んで、現存するギリシア文学の――したがって、ヨーロッパ文学の――劈頭に位置している。現代の学者たちの説によると、これら二作品が作られた場所は、『イリアス』では確実に、『オデュッセイア』では十中八九、ギリシア本土ではなく、エーゲ海の島の一つ、もしくはさらに遠く東方の小アジア半島(今日のトルコ)とされる。また、これら最古の文学が成立した年代は、前750年から前700年まで、あるいはそれよりほんの少し後とするのが定説になっている。<フィンリー/下田立行訳『オデュッセイアの世界』1994 岩波文庫 p.14>

Episode ホメロス 絶倫の記憶力の持ち主

 『イリアス』と『オデュッセイア』は、文字で書かれた書物として作られたのではなく、ホメロスによって語られ、職業的な口承詩人によって伝承されたものであった。そのような詩人はホメロスがそうであったように、多くは盲人であったようだ。しかし、1万数千行におよぶ長大な詩を、はたして暗唱できたのであろうか。現在は、『イリアス』が岩波文庫で各約400ページの上下二冊で読むことができるが、読むのでさえ骨が折れる。
 岩波文庫版『イリアス』(上)の翻訳者松平千秋氏の解説によれば、「ギリシアの叙事詩は元来、文字とは無縁のものであった」であり、職業的な演者によって口承されたという。このような長大で緻密な構成をもつ文学が、文字の使用なくしては不可能とする説はドイツなどで有力だと言うが、当時ギリシアには絶倫の記憶力を持つ職業的口承詩人がいて、彼らは宴席などで余興として物語の「さわり」(初めの部分の意味ではなく、本題という意味)を口演することができた。線文字Bにしろアルファベットにしろ、このころ使われるようになった文字は、取引や商売で使われたもので、文学を表現するためのものではなかったので、彼ら口承詩人は文字を使うことに無関心(または軽蔑していた)だったという。<ホメロス/松平千秋訳『イリアス』上 1992 岩波文庫 解説 p.436-440>

口承文学のテキスト化

 松平氏に依れば、『イリアス』や『オデュッセイア』が文字に写されたのは、前800年頃のホメロスの時代ではなく、200年ほどたった前6世紀のアテネで僭主政を行ったペイシストラトス(もしくはその子のヒッパルコス)の時ではないかという。プラトンの著作『ヒッパルコス』では、ヒッパルコスが初めてホメロスの詩をアッティカの地にもたらし、パン・アテナイア大祭で全曲を演じさせたことが見え、ローマのキケロの『弁論家について』では、ペイシストラトスがそれまで混乱していたホメロスの巻々を今日(つまり前1世紀)見るような書物に整備した、と書かれている。このれらのことから、前6世紀のペイシストラトスとその子のヒッパルコスの時代に、大祭での上演のために、まとまったテキストに編纂されたと考えられる。<ホメロス/松平千秋訳『イリアス』上 1992 岩波文庫 解説 p.436-440>