李舜臣
朝鮮の水軍を率いて豊臣秀吉の朝鮮侵略(1592年~)と戦った。亀甲船を考案し、倭軍の水軍を次々と破り、その補給路を遮断した。一時罪を得て退いたが、再び前線に出て活躍したが、98年11月に戦死した。
1973~1993に韓国で流通した紙幣の李舜臣と亀甲船
名将としての生涯
李舜臣は1545年、ソウルに生まれ、1576年、武科に合格して軍人となった。文官として政治の中枢で活躍する柳成龍とは若いころから交友があり、二人とも官人の派閥では東人派に属していた。その後、県監・郡守などを歴任。1591年、47歳で全羅左道水軍節度使に抜擢された。壬辰の倭乱が始まると慶尚右水使元均を助け、亀甲船を駆使して倭の水軍を撃破し、その補給路を断った。この間、地位も上がったが、戦いにひるむ元均(西人派)のねたみを買い、讒訴されて罪を得、入獄し、後に許されたが白衣従軍(一兵卒として従軍すること)の処分となった。しかし、丁酉の倭乱が始まると、元均が戦死し、李舜臣は許されて再び三道水軍統制使となり、朝鮮水軍を再建し、明軍と力を合わせて戦った。1598年8月、秀吉の死により、倭軍は撤退を開始するが、朝鮮水軍と明軍は追撃作戦をとり、李舜臣は11月慶尚南道露梁津で島津の水軍と戦い銃弾に当たって戦死した。<北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』1995 吉川弘文館 p.101-102>李舜臣は、その死の前日まで、詳細な日記を書いていた。その日記『乱中日記』は最近、北島万次氏によって校訂翻訳されて、東洋文庫に三分冊として刊行され、読むことができるようになった。また翻訳にあたった北島氏が、その記録にもとづいて、李舜臣の人物と、戦術、朝鮮水軍の組織、亀甲船の実態、朝鮮水軍に降伏したいわゆる降倭などについて詳しく述べているのが近刊の『秀吉の朝鮮出兵と民衆』(岩波文庫)である。<北島万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆』2012 岩波新書>
Episode 東郷平八郎が尊敬した将軍
ソウルの中心にある巨大な李舜臣像
(引用)不肖東郷を或はネルソンに喩へ、或は李舜臣に擬して賞賛されましたこと、身に余る光栄であります。然しながら、ネルソンはいざ知らず、李舜臣になぞらへたのはあたりませぬ。不肖東郷如きは、李舜臣の足元にも遠く及ぶ者ではあるませぬ。 <崔官『文禄・慶長の役―文学に刻まれた戦争』1994 講談社選書メチエ p.64>現在も李舜臣は韓国の国民的英雄として、ソウルの中心部にその巨大な銅像が建てられ、また閑山島海戦の戦捷の地の統営は李舜臣の号である「忠武(チュンム)」に倣って「忠武市」と改められている。
亀甲船/亀船
16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵略と戦った朝鮮水軍の李舜臣が考案した戦船。日本水軍に打撃をあたえ、豊臣軍は物資補給に苦しんだ。
朝鮮水軍の亀船(亀甲船)
李舜臣の亀甲船
亀甲船というのは、木造船の上に鉄板(または堅い板)で覆い、敵が乗り込めないようにし、船の左右にたくさんの櫂をつけて速力を早めて敵に近寄り、無数の銃眼から鉄砲や矢を射るようにしたもの。舳先には口を開けた竜頭をすえ、上からも砲火を浴びせられるようにした。15世紀の初めごろから、倭寇と戦うために考案されたらしく、李舜臣が改良して実戦に使えるようにした。李舜臣はこの亀甲船と、潮の流れをうまく利用して日本海軍をほんろうしたという。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.154>「亀船」
山川出版社詳説世界史では2013年版から、挿絵の説明を「亀船(亀甲船)」とし、現行版では亀船に「きせん」とルビを振るようになった。用語集の新版でも索引が亀船となった。これは、李舜臣の水軍を描いた絵にも「亀」あるいは「亀船」と大書されており(上図参照)、また朝鮮側の基本史料として活用されている、柳成竜(当時の朝鮮王朝の政治家)の『懲毖録』に「亀船」とあることに拠っているようだ。『懲毖録』には次のように記されている。(引用)これに先だって舜臣は、亀船を創造していた。船の上を板で張りつめ、その形が穹窿状で亀に似ており、戦士や漕ぎ手はみな船内におり、左右前後には火砲を多く載せ、縦横に動きまわること梭(ひ)のようで、賊船に遭遇すればいっせいに大砲を放ってこれをうち砕くものであった。諸船が一時に勢いを合わせて攻めたので、烟焰(煙と炎)が天にみなぎり、賊船を焚焼すること数知れなかった。<柳成竜/朴鐘鳴訳『懲毖録』、宮嶋博史『明清と李朝の時代』世界の歴史12 1998 中央公論社 p.265による孫引き>ただし、まだ他社の教科書は「亀甲船」としており、「亀船」は定着はしていないようだ。