豊臣秀吉の朝鮮侵略/文禄・慶長の役/壬辰・丁酉の倭乱
16世紀末、2度行われた豊臣秀吉の朝鮮侵略。日本では文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱という。1592年、朝鮮に侵攻した倭軍は平壌まで進んだが、朝鮮の義兵の抵抗と明の援軍によって反撃を受け、さらに李舜臣指揮の朝鮮水軍によって補給路を断たれたため苦戦、一旦講和した。1597年に再び侵攻し、朝鮮南部で朝鮮・明の連合軍と戦った。98年、秀吉の死によって撤退し、戦争は終わったが豊臣政権は間もなく倒れ、朝鮮の国土は荒廃し、明もまた間もなく清によって滅ぼされる。またこのとき捕虜となって日本に連行された朝鮮人によって、日本の朱子学の興隆、陶芸技術の飛躍的発展などがもたらされた。
戦争の呼称と意義 日本での文禄・慶長の役は、当時は「唐入り」、戦前には「朝鮮征伐」といわれていたが、その実態は侵略戦争であった。朝鮮(李朝)では壬辰・丁酉の倭乱(朝鮮には年号がなかったので干支で年代を示した)といわれ、明(時の皇帝は万暦帝)では秀吉を「平秀吉」とよび、最近ではこの戦争を「抗倭援朝戦争」と呼んでいる。
戦争に大義名分はなく、戦国時代の日本を統一した豊臣秀吉が、更なる領土拡張をめざして朝鮮を侵略したものであり、さらに秀吉の構想では明を征服し、天皇を北京に移すというものだった。豊臣秀吉の個人的な野望から始まり、その死によって終わった無謀な侵略戦争であったが、結果として領土の変更は何一つなく終わった。また秀吉は1588年に海賊禁止令を出して倭寇を終わらせたが、彼自身の出兵が最後で最大の倭寇であったとも言える。
しかし、この戦争は16世紀末の東アジアに大きな影響を与えた。日本ではこの戦争が成果無く終わったことから豊臣政権が急速に崩壊に向かい、中国においても明の滅亡への端緒となり、清に王朝の座を明け渡すこととなる。何よりも戦場となった朝鮮では国土の荒廃、人口の激減という後遺症が残った。
なお、この戦争は「やきもの戦争」といわれるように多くの陶工が日本に連れ去られ、その他にも織物や金属活字、儒学などが日本にもたらされるという「文化の伝承」という側面があったが、実態は「文化の略奪」であって、朝鮮の陶芸や出版は一時停滞せざるを得なくなるなどの被害を受けた。
16世紀末の東アジア情勢
1585年に関白となった豊臣秀吉は、1590年までに戦国時代の争乱を終結させ、九州、関東、東北を平定し、統一政権を樹立した。その間、1587年にはキリスト教禁教令(バテレン追放令)を出してヨーロッパ勢力の進出を抑える姿勢を示した。とくに1588年には検地と刀狩りによって封建支配体制を作り上げる同時に、海賊停止令を出して倭寇取り締まりを強化して、明に対する勘合貿易の再開を迫った。さらに1591年8月には身分統制令を出して最下層の武士まで百姓になることを禁じて兵員を確保した上で、9月に朝鮮出兵を各大名に命じた。その前線基地として、黒田孝高(如水)に命じ、肥前名護屋城を築城させた。豊臣秀吉軍(以下、倭軍という)の侵攻の始まった1592年は朝鮮(李朝)が李成桂によって創始(1392年)されてからちょうど200年目にあたっており、高度な文明を維持していたが、儒教(朱子学)の大義名分観によって政治は形式化し、支配階層である両班は東人派と西人派に分かれて党争を繰り返していた。朝鮮の宗主国を以て自認する明は万暦帝の時代にあたり、国力は衰退期に入っていて東北方面からの女真(後の清)の侵攻に苦しんでいた。しかし明は、豊臣政権をかつて永楽帝が日本国王に冊封した足利義満の幕府を倒したものであり、その正統性を認めていなかった。明は豊臣政権の朝鮮への派兵は、自国領への侵攻と捉え、軍の派遣を行った。朝鮮も明軍の支援を要請したが、その兵糧を負担しなければならず、大きな負担でもあった。
そのころ西欧では、1580年にはスペインがポルトガルを併合して全盛期を迎えたが、1588年に無敵艦隊がイギリス海軍に敗れ、海外進出の主役がスペインからイギリス・オランダへと変化する転換期を迎えていた。
豊臣秀吉の朝鮮侵略 文禄・慶長の役
出兵の理由 豊臣秀吉は朝鮮への出兵にあたり、朝鮮国王に示した国書で、自分は母が身籠もったとき日輪が懐中に入った入った夢を見て生まれた「日輪の子」である、と述べ、この奇瑞によって百戦百勝し天下を治めている。しかし、これで満足しておらず、大明国に入り、日本の風俗を中国の四百余州に及ぼしたい。自分が明へ兵を出すときは、士卒をひきいて軍営に臨むように、と求めた。自らを「日輪の子」と称した秀吉は、国書を「予の願は他に無し、ただ佳名を三国(日本、中国、天竺=インド)に顕(あらわ)さんのみ」と結んだ。このように秀吉の朝鮮出兵は、まったく個人的な野心から発したことであったが、その背景には天下統一によって部将たちが新たな恩賞を得ることができず、不満が生じることを恐れた事が考えられる。豊臣政権は戦争を継続して新たな恩賞を与えることで成り立っていた。宣教師の目 当時日本で布教にあたっていたポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス=フロイスはその報告書『日本史』のなかで、秀吉の朝鮮出兵に対して、次のような観察をしている。
(引用)このような仕事が進み、すべての人がこの征服事業の準備に忙殺されていた間に、次のような噂が広くひろまった。すなわち、関白はこの事業を結局は成就し得ないであろう、そして高麗へ出陣するに先立って、日本中いたるところで大規模な叛乱が惹起されるだろう、というのである。じつは人々はひどくこの征服事業に加わることを嫌悪しており、まるで死に赴くことを保証されているように考えていた。それがために、婦女子たちは孤独の境地に追いやられたことを泣き悲しみ、もはや再び自分たちの父や夫に相見えることはできまいと思っていた。その多くは後には現実のこととなり、事実、日本中に不安と慨歎が充満し、そのために誰か強力な武将がかならずや関白に向かって叛起するに違いないと感じられていた。そして一同はそのように希望し、誰かがそれを実行することを期待していたのであるが、結局は、猫の首に最初の鈴を付けることを自ら名乗り出る鼠は一匹も現われはしなかった。<ルイス=フロイス/松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史 5』2000 中公文庫 p.153>フロイスは、朝鮮出兵の先陣を切ったキリシタン大名小西行長(洗礼名アゴスチイノ)から、かなり詳しい情報を得ていた。その『日本史』は宣教師の見た貴重な同時代史料となっている。
文禄の役 1592年~94年の文禄の役は15万の大軍で行われ、加藤清正、小西行長らに率いられた倭軍は朝鮮の都漢城を落とし、さらに平壌まで進んだ。しかし、朝鮮の民衆も加わって抵抗が激しくなり、両班層や僧侶が指導する義兵が挙兵して抵抗し、明が李如松の指揮する援軍を派遣して平壌を奪還したため、前進が止まり、苦戦に陥った。碧蹄館の戦いで勝った倭軍は戦線を持ちこたえたが、戦線は膠着し、長期戦に転じた。その間海上では李舜臣の指揮する朝鮮水軍が豊臣方の水軍を各地で破り、制海権を握ったため、豊臣軍は補給に苦しむこととなった。明も戦争の長期化を避けようとして、94年から講和交渉に応じ、一旦停戦が成立したが、豊臣秀吉は朝鮮各地に城を築かせ部将を配置して、朝鮮南部の領有をはかった。1596年、明の使節が秀吉と折衝したが、秀吉は明の降伏と皇帝の娘を天皇に嫁すること、朝鮮の南半分を割譲することなどをもとめたので決裂し、再出兵を決意した。
Episode 朝鮮に降伏した日本武将沙也可
秀吉の朝鮮侵略で出兵した倭軍のなかに、沙也可という武将がいて、朝鮮で重く用いられ、金忠善の名を与えられ、その子孫が今も韓国で続いているという話は、司馬遼太郎が『街道をゆく2 韓(から)のくに紀行』でふれてから有名になった。戦前からその存在は知られていたが、金忠善が書いたという『慕夏堂文集』は偽書とされ、沙也可なる人物の存在も疑わしいとされていた。日本の朝鮮植民地支配のもとで、日本人が朝鮮に降伏したなどということは“不都合な真実”とされたからであり、存在したとしても売国奴としてかたづけられていた。そのようななか、1933(昭和8)年に沙也可は実在の人物だと実証した歴史学者がいた。その名は中村栄孝。その論考は戦後『日鮮関係史の研究』上下として刊行されている。日本側の史料で誰にあたるかは諸説あり、最近では、北島万次氏は『豊臣秀吉の朝鮮侵略』のなかで加藤清正の配下であった岡本(または阿蘇宮)越後守と推定している。また同氏の著作によれば、ほかにも多数の降倭(朝鮮に投降した日本兵)が存在した。沙也可は『慕夏堂文集』によれば、朝鮮が礼儀の国であることを知り、投降を決意したという。そして彼の子孫は今でも慶尚北道の友鹿洞で暮らしているという。司馬遼太郎の紀行文は、友鹿洞の沙也可の子孫の村を訪ね、詳しく報告している。<北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』1995 吉川弘文館 p.1,230-231/司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』1971 p.117-153>慶長の役 1597年~98年にかけて秀吉は再度派兵を敢行、慶長の役となった。明が14万の援軍を送り、朝鮮民衆の抵抗も激しかったので倭軍の活動範囲は朝鮮南部に限られ、苦戦が続いた。加藤清正軍が籠城した蔚山城では多大の犠牲が生じ、倭軍からも投降する者が多かった。李舜臣は亀甲船を用いて倭の水軍を圧倒した。秀吉は和平交渉を行いながら増派を続け、島津義弘などの大名は多数の朝鮮人捕虜を獲得した。しかし、諸将の間には加藤清正と小西行長の対立など、内紛が続き、国内にも厭戦の気分が強くなるなか、98年8月に豊臣秀吉が死去し、後を任された徳川家康ら五大老は朝鮮からの撤退を決定した。戦闘はなおも続き、朝鮮軍の攻勢が強まったが、同年末までには島津軍など主力はすべて撤退し、戦いは終わった。
Episode 京都に作られた鼻塚
京都の方広寺側に、今も「耳塚」という塚があり五輪塔が建っている。これは文禄・慶長の役のとき、朝鮮兵の耳を切って持ち帰り、供養のために立てられたとされている。しかしこれは「耳塚」ではなく「鼻塚」である。江戸時代の伊藤梅宇と言う人の『見聞談叢』(1738年頃刊)に、「耳にてはなく、実は鼻塚なり」とあり、「慶長二年七月、加藤清正小西行長朝鮮におひてきり取る所の鼻なり。二大将の兵二十万にして朝鮮人の鼻三つあてにかく。彼国におひて目付の実検にいれ塩漬にして来れり。目付は毛利豊後、竹中源助、鶴見和泉、毛利民部、品川主殿助、熊谷内蔵介」と説明している。<伊藤梅宇『見聞談叢』1940 岩波文庫 p.87>また、近年の北島氏などの著作では、朝鮮での鼻切りは豊臣秀吉が直接諸将に命じたことであり、その数によって手柄になるので、殺した兵士だけでなく生きている捕虜や一般人の鼻をそいで日本に送った。そのため戦争後も鼻なして歩いている人がいたという。<北島万次『秀吉の朝鮮侵略』2002 日本李リブレット 山川出版社 p.81-86 多数の「鼻受取状」の実例が写真とともに掲載されている。>
文禄・慶長の役の影響 倭軍は引き上げるに際して5~6万の朝鮮人を捕虜として連行したが、その中には優れた陶工や活版工が含まれ、日本の文化の発展に寄与することとなった。特にこの戦争は「やきもの戦争」とも云われ、有田焼、唐津焼、萩焼、薩摩焼などはこのとき連れてこられた朝鮮陶工が始めたものである。その一人、李参平は佐賀の有田に移り住み、1616年に日本で初めて磁器を製造した。これが有田焼の始まりで、日本の陶磁器の歴史で重大な変化の一つとされている。また捕虜のなかには儒学者が含まれており、李退渓(李滉)の学統を嗣ぐ姜沆(カンハン)はその一人であったが、京都に呼ばれて藤原惺窩などに影響を与え、日本の朱子学の発展に寄与した。なお姜沆は許されて朝鮮に帰国することができ、日本での体験を『看羊録』を残している。<『看羊録』は平凡社・東洋文庫で読むことができる。>
Episode 『故郷忘じがたく候』
秀吉の朝鮮侵略の際に捕虜として日本に連れてこられた朝鮮人のなかで、最もよく知られたのは陶工であろう。その一つの集団で、薩摩にたどり着き、今に続く薩摩焼を伝えているのが代々、沈寿官を名乗る家に率いられた人びとである。彼らの子孫は現在でも鹿児島の西方で暮らしており、苗代川焼または薩摩焼としして知られる陶器を作り続けている。この村を訪ねて、当主の沈寿官の話を『故郷忘じがたく候』という一編の作品にしたのが、これも司馬遼太郎である。薩摩の風土のなかでいつしか日本人となりながら、朝鮮人として生きてきた彼らの話に心打たれるものがある。<司馬遼太郎『故郷忘れがたく候』1968 文春文庫>日本人の心性のなかの朝鮮観
秀吉の朝鮮侵略は失敗に終わったにもかかわらず、緒戦の勝利や、小西行長の平壌占領、加藤清正の感鏡道の最奥地までの侵攻など、あるいは清正の虎退治などのエピソードを通じて、秀吉の気宇壮大な事業として褒め讃えられた。本居宣長も『馭戎概言』で秀吉の決断を神国日本の壮挙として褒め讃えている(同時代の上田秋成は他国を征服して長く支配を維持することはたとえ小国であってもできたためしはないと、批判しているが)。そして、古代の神功皇后の「三韓征伐」とともに「秀吉の朝鮮征伐」として、抜きがたい朝鮮蔑視の心性を作り上げる一因となった。1910年8月、韓国併合の夜、韓国統監寺内正毅は「小早川・加藤・小西が世にあらば、今宵の月をいかに見るらむ」と詠んだ。日本帝国主義による朝鮮植民地化として、「朝鮮征伐」史観が復活したのだった。<北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』1995 吉川弘文館 p.275>改めて今、豊臣秀吉の「倭軍」が朝鮮半島で何を行ったか、“不都合な真実”に目を背けることなく、知ることが必要であろう。
壬辰・丁酉の倭乱
豊臣秀吉の侵略に対する朝鮮側での呼称。朝鮮王朝は倭軍の侵攻に苦しみながら、義兵の抵抗、李舜臣率いる水軍の活躍、明の援軍によって撃退した。しかし国土の荒廃、人口の減少によって国力は低下し、生産と文化の停滞のなかで、李朝政権は支配維持のために儒教理念による体制強化に向かうこととなった。
豊臣秀吉の明遠征軍を誘導して協力せよという要求を朝鮮の朝廷は拒否した。使節として秀吉のもとに派遣された正使は秀吉の目はランランとして本気だから対策を立てるべきだと報告したが、副使は秀吉の目はネズミのようで恐るるに足りない、出兵はできるはずはなくおどしにすぎないと伝えた。国王の下で政治にあたっていた柳成龍は後者に与した。前者は官僚のなかの西人派、後者は東人派に属しており、当時の朝鮮宮廷内の両班層の党争の対立が、誤った情勢判断をもたらしたのだった。
壬辰の倭乱 1592年4月、倭軍は釜山に上陸、各地で破壊と略奪をしながらたちまち首都漢城を陥れた。国王宣祖は涙を流しながら都を捨て、北の平壌へと避難した。その間、慶州の仏国寺(新羅時代の仏教寺院)や芬皇寺などが焼かれ、多くの文化財が失われたり略奪された。当初、両班は抵抗しないでいたが、民衆は各地で激しく抵抗し、次第に両班層や僧侶のなかにも義軍を組織して組織的な抵抗を開始するようになった。また朝鮮水軍の李舜臣は、亀甲船を工夫して海上で活躍し、倭軍の補給路を断って苦しめるようになった。倭軍が明との国境鴨緑江に迫るなか、明がついに援軍を派遣し、平壌の戦いで小西行長軍を破り、倭軍の進撃をくい止めた。たが、碧蹄館の戦いで日本軍に敗れ、両軍は一進一退を繰り返すなか、北方の女真との戦いも抱えて明は講和をもちかけ、一旦停戦が成立した。しかしこの講和には朝鮮政府は関わることがなく、豊臣軍と明軍の間になされたものに過ぎなかった。
Episode 倭将を道連れに入水した妓生
豊臣秀吉の侵略軍、倭軍に抵抗した朝鮮の人びとのなかに、後々の文学でも主人公とされる英雄が現れた。よく知られた李舜臣もその一人であるが、次のような一人の妓生(キーセン)の話もよく知られている。壬辰の倭乱のとき激戦地となった晋州城が倭軍の手に落ちた。敵将は戦勝に酔って宴を開く。そのとき妓生(酒席で歌や舞で客をもてなす芸妓)の一人論介(ノンゲ)は城のほとりを流れる南江の岩の上で舞う。興に乗った倭将の一人が岩に上ると、論介は笑いながら抱き寄せ、踊りながらともに南江に身を投じた。倭軍の武将を道連れに川に飛びこんだ論介は、その後様々な形で語り継がれ、小説にもなった。彼女を主人公とした小説『壬辰録』は日本植民地時代には出版禁止されていた。今では論介が身を投じた岩が「義岩」とされ、その記念碑も建てられヒロインになっている。<崔官『文禄・慶長の役―文学に刻まれた戦争』1994 講談社選書メチエ p.202-217>
丁酉の倭乱 日本と明の和議が破れ、秀吉は再征を命じ、丁酉の倭乱(1597~98年)となるが、このときの戦場は朝鮮の南部に限られ、朝鮮と明軍の組織的な抵抗があったので日本軍は苦戦、加藤清正は尉山で籠城しなければならなかった。蔚山城の攻防では朝鮮と明側だけでなく、加藤清正軍も大きな被害を出し、また倭軍のなかに投降する者も多くなった。蔚山城攻略に失敗した明軍は、撤退するときに朝鮮の農民に対する略奪暴行の限りを尽くした。1598年夏、秀吉が死んだが、その死はしばらく伏せられ、戦闘が続いた。しかし、秀吉死後、五大老の一人として日本の実権を握った徳川家康は、これ以上の滞陣は無理と判断し、倭軍は撤退を開始、朝鮮軍と明軍はそれを追撃し、倭軍の将兵に大きな打撃をあたえた。しかし11月の海戦で李舜臣が戦死した。ようやく12月に撤退は完了し、戦闘は終わった。
文化の略奪
長期にわたった戦争で国土は荒廃し、人口も急減して国力も失われた。多数の捕虜が連れ去れて、日本国内の労働力不足を補うために奴隷として使役されたり、場合によってはポルトガル人奴隷商人に転売されて、遠くヨーロッパまで連れて行かれた者もいた。陶磁器では当時の日本には蹴回し式のろくろや釉薬の高度な技術が無かったので、大名たちは競って朝鮮人陶工を捕虜として連れ帰った。また、書籍と活字も遠征軍の将兵が好んで強奪し、持ち帰った。朝鮮の金属活字技術は世界最高水準であったので、多数の金属活字が持ち去れれたが、油性の墨の製造技術は伝えられなかったので、日本では普及しなかった。活字・印刷器材一切を奪われた朝鮮では、七十年間活字鋳造ができないような状態に陥ってしまう。<崔官『文禄・慶長の役―文学に刻まれた戦争』1994 講談社選書メチエ p.72>Episode 奴隷としてヨーロッパに売られた朝鮮人
倭乱の後の朝鮮
朝鮮はさらに続いて北辺で清の侵略を受け、実質的な属国となる。国内的には儒教による秩序がさらに強化され、西欧諸国に対しては鎖国政策を維持したが、国内での両班層の党争は依然として続き、次第に体制は硬直していくこととなる。朝鮮通信使の始まり 日本側でも秀吉の死後、急激な変化が生じ、1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が天下を取った。家康は、朝鮮および明との国交回復をめざして対馬の宗氏に交渉を開始させ、朝鮮人捕虜の送還などに応じた。宗氏は1606年に徳川家康を「日本国王」とする国書を偽造して朝鮮に国交回復を申し出て、朝鮮側はそれを受けて、1607年5月、江戸城に使節を送り二代将軍徳川秀忠に謁見した。これが朝鮮通信使の始まりである。