詳説世界史 準拠ノート(最新版)
第7章 アジア諸地域の繁栄
1節 東アジア世界の動向
■ポイント 元から明への変化の意味を押さえ、当時の東アジアの状況を知る。
A紅巾の乱 14世紀 世界的な災害、疫病の多発 → 東アジアでも飢饉続く- 1351年 仏教をもとにした宗教結社a 白蓮教徒 が反乱をおこす。▲韓山童、韓林児の親子が指導。
= 弥勒仏がこの世に現れるという下生信仰と結びつき勢力を拡大。各地でも群雄が蜂起。 - b 朱元璋 貧農出身で反乱に加わり、次第に頭角を現す。 → 儒学の素養を持つ知識人=地主と結ぶ。
→ 長江下流を制圧し、1366年までに農民反乱を鎮圧。 → 北伐を行い、元軍を破る。
解説
紅巾の乱はきわめて宗教色の強い白蓮教徒によって主導されたが、反乱には広い農民層の支持があった。朱元璋も貧農の出身でこの反乱に加わったが、白蓮教徒であったかどうかは判っていない。当初は韓山童に従っていたが、途中で韓山童の子の韓林児を殺害して反乱軍の主導権を握り、地主層や知識人と結んで反乱を鎮圧し、1368年に明を建国した。同じころの1370年、中央アジアではティムールが建国している。
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B明 の成立。Text p.179
- 1368年、a 南京 で即位、年号をb 洪武 と定める=c 一世一元の制 。
=d 洪武帝 (廟号はe 太祖 )の即位。→ 元はモンゴル高原に退き、f 北元 と称す。 - 意義:g 漢民族の王朝を復活させ、江南から起こって中国を統一した最初の王朝となった。
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C東アジアの情勢 14世紀後半。- 日本:1333年 鎌倉幕府が滅亡 → 後醍醐天皇の建武の新政 → 足利尊氏、室町幕府を開く。
→ a 南北朝の内乱 が続く。日本人のb 倭寇(前期倭寇) の活動活発になる。
1392年 c 南北朝の統一 がなる。 → 室町幕府の安定。 - 高麗は親元派と反元派の対立し、 b 倭寇 の侵入にも苦しみ、衰退。
1392年、d 李成桂 がb 倭寇 の鎮圧で名声を上げ、王位につく(太祖)。(後出)
→ 国号をe 朝鮮 、都をf 漢城 (現ソウル)とする。
解説
李成桂の建てた国は「朝鮮」であり、王朝は「朝鮮王朝」である。「李朝」ということもある。にほんではかつて「李氏朝鮮」と言われたが、「朝鮮」と称する国はこの李成桂の建てた国だけなので、「李氏朝鮮」と言う必要は無い。現在の韓国でも「李氏朝鮮」という云い方はされない。
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イ.明初の政治
■ポイント 明王朝はどのようにして中国を支配したか。またその特質は何だったか。
A洪武帝 の統治 (1368~1398) 漢民族の意識を高め、専制支配体制の強化をはかる。- 皇帝の独裁的権力確立 1380年 a 中書省 とその長官である丞相を廃止。
→ b 六部の皇帝直属 万事を皇帝が直接決定する態勢をつくる。
中央官制、地方官制とも行政・軍事・監察の三権を互いに牽制させる。 - c 里甲制 :民戸(農民、商人など税を負担する戸)を里と甲に編成。
110戸を1里とし富戸10戸をd 里長戸 、残りを10戸ずつ10甲に分け
甲ごとにe 甲首戸 を置く。1年交替で徴税事務、治安維持などにある。
長老をf 里老人 として裁判、民衆教化にあたらせる。 - 税制:戸籍・租税台帳としてg 賦役黄冊 を10年ごとに作成。
あわせて土地台帳としてh 魚鱗図冊 (右図)を作成。 - i 朱子学 を官学とし、j 『六諭』 を定め、里ごとにとなえさせる。
- k 科挙制 の整備。郷試→会試→殿試の三段階選抜。
- l 明律 ・m 明令 の制定。
- n 軍戸 を設け、o 衛所制 を編成。
= 112人で百戸所、10百戸所で千戸所、5千戸所で1衛とする。 - p 海禁政策 をとり、貿易はq 朝貢貿易 のみを認める。
→ 周辺諸国の貿易船に勘合符を発行するr 勘合貿易 を始める。 - ▲通貨:紙幣の他に銅銭の洪武通宝を発行。次の永楽通宝とともに日本にも輸出。
Text p.180
h 魚鱗図冊
解説
六諭(りくゆ)とは、洪武帝が里甲制の下での農村で、里老人を通じて農民に示した。「父母に孝順であれ」「長上を尊敬せよ」「郷里に和睦せよ」「子孫を教訓せよ」「おのおのの生業に安んぜよ」「非違をなすことなかれ」という、朱子学に基づく道徳観によって農民を権力に従順な存在に抑えつけようとしたもの。日本の江戸幕府でもさかんに農民に対して説諭された。
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B靖難の役 1399~1402年- 洪武帝、息子たちをモンゴルに備えて北方辺境に置く。 → 北平(現在の北京)の燕王朱棣が有力になる。
- 第2代a 建文帝 、諸王の勢力削減をはかる。
- 1399年、燕王が挙兵、南京を占領。「君側の奸を除き、帝室の難を靖んじる」と称した。
解説
建文帝は洪武帝の孫、燕王朱棣(しゅてい)はその伯父という関係。朱棣は若いときから父に従って戦場で活躍し、優れた軍事的才能を持っていたが、兄の子の建文帝が帝位を継いだため、不満を抱いた。朱棣は建文帝が伯父たちの力をそごうとしたことに反発して挙兵したが、大義名分がないので、「君側の奸を除く」つまり皇帝の政治と誤らせている側近を排除することをその口実とした。そこでこの戦いを朱棣側から見て、「靖難の役」という。追い詰められた建文帝は南京で殺害され、朱棣が永楽帝として即位すると、建文帝の存在を否定し、自らを第二代皇帝とした。建文帝が皇帝であったことが認められるのは後のことであった。
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C永楽帝 の政治 1402年、明の第3代皇帝(a 成祖 )として即位。- 1421年 b 北京 に遷都。 c 紫禁城 を造営。
- 親政を補佐する▲d 内閣大学士 を置く(内閣の始まり)。一方でe 宦官 を重用。
- 科挙の基準として、『 f 四書大全 』『g 五経大全 』を編纂。 → 朱子学道徳の重視。
- 『h 永楽大典 』の編纂 = 古今の図書を集め、分類整理した大百科事典として刊行。
- 経済:江南と北京を結ぶ運河を整備。 永楽通宝を発行。
- 対外:積極策を展開、i モンゴル に親征、j ベトナム に遠征軍を送り、支配。
k 鄭和 を南海遠征に派遣。朝貢貿易の拡大を図る。(下掲)
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D 明の転換 C 永楽帝 ユーラシア西部のa ティムール帝国 の進出に対抗して出陣。- 1424年 モンゴル遠征の途中で死去。以後各皇帝、北京北西に陵墓建設( 明の十三陵 )
その死後、明は対外消極策に変わる。 → 内モンゴルから後退、ヴェトナム(大越国)の独立。
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明の支配領域とその周辺 15世紀はじめのアジア
重要地
1. 南京
2. 北京
3. カラコルム
4. 漢城
5. 土木の変
周辺諸地域
a. 韃靼(タタール)
b. 瓦刺(オイラト)
c. ティムール朝
d. チベット
e. ベトナム(大越国)
f. アユタヤ朝(タイ)
g. 女真
h. 朝鮮(李朝)
i. 室町幕府
j. 琉球王国
※a 鄭和の南海遠征 イスラーム教徒で宦官といわれる。1405年~1433年の間、7回の大航海を行う。
- 第1回 南京 → チャンパー → ジャワ島 → スマトラ島 → セイロン島 → b カリカット 到達
- 第4回 c ホルムズ をへてアフリカ東岸に到達しd モガディシュ 、e マリンディ などを訪問
- 第7回 分遣隊をf メッカ に派遣、各地の王に朝貢を促し、ムスリム商人と交易を行う。
→ 帰国後、明の外交政策はg 海禁政策 の強化に転じこの事業は忘れられる。
解説
永楽帝が鄭和を南海に派遣し、大航海を7度にわたって行わせたのは、軍事的な目的ではなく、多くの国に朝貢をうながすことが目的であった。その背景には、宋代・元代と続いた広域経済圏の存在がある。鄭和が常に2万人を超える乗組員を従えた大艦隊を率いて南シナ海からインド洋にかけて大航海を行ったことは、それから約90年後の1498年にヨーロッパ人で初めてインド洋を航行してカリカットに到達したポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマ船団がわずか60人の乗組員しかいなかったことと比べ、当時の中国の文明がヨーロッパより優位に立っていたことを示している。
しかし、鄭和の大航海は、ヨーロッパの大航海時代のようなインパクトを世界に与えることはなく、ほぼ永楽帝一代の事業として終わり、その後の明は再び海禁政策に戻ってしまう。
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ウ.明朝の朝貢世界
■ポイント 14~15世紀の明朝を中心に行われた朝貢貿易の広がりを知る。
マラッカから朝貢されたキリン
- 1429年a 中山王(尚巴志) によって統一される。
- 明との朝貢貿易 → b 東シナ海と南シナ海を結ぶ交易の要となり栄える。
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Bマラッカ王国 14世紀末、マレー半島の南西部に成立。(現在のマレーシア)- a 鄭和 の遠征を機に成長、インド洋と東南アジアを中継し栄える。
- 15世紀半ばに東南アジアで最初に本格的にb イスラーム化 。(4章3節)
→ ジャワのマジャパヒト王国に代わり東南アジア最大の貿易拠点となる。
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C朝鮮王朝 一般にa 李朝 という。- 明に朝貢し、b 科挙 の整備、c 朱子学 の導入を図る。儒教が広く浸透する。
- ▲科田法 を制定し大土地所有を制限。全国の土地調査を実施。荘園を没収。
- 15世紀前半 d 世宗 の時代 に最も安定する。
e 金属活字 による出版、f 訓民正音(ハングル) の制定など。
Text p.181
解説
独自の文字を持たず、漢字を使用していた朝鮮で、世宗は朝鮮語を書き表すことができ知識階級である両班だけではなく、一般庶民も用いることのできる簡便な文字を創案しようとした。世宗は学者を集め、自身も参画してその作成に当たり、1446年に「訓民正音」として公布した。この文字は母音11字、子音17字のあわせて28字(現在は24字)を組み合わせてあらわされる表音文字で、漢字を変形させたものではない、独自の工夫がなされている優れた文字であるが、当初は両班は依然として漢字・漢文を用い、訓民正音は女子が用いることが多かった。19世紀に民族意識が高まると共に、「偉大な文字」の意味のあるハングルと言われるようになり、広く普及した。
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D日本 a 室町幕府 の将軍b 足利義満 、1401年に明に朝貢し、日本国王に封ぜられる。- 1404年 c 日明貿易 を開始。d 勘合貿易 の形態をとる。e 倭寇 は禁圧される。
- 並行して朝鮮との貿易( 日朝貿易 )も行われる。
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Eベトナム(大越国) 1400年に胡朝が成立。1406年 a 永楽帝 の遠征軍に征服される。- 1418年 黎利が明軍を撃退し、大越国の独立を回復し、b 黎朝 を樹立。
→ その後は朝貢を続け、明朝の制度を学び、朱子学が盛んになる。
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Fモンゴル 1388年 北元、滅亡。東部のa タタール と西部のb オイラト に分かれる。- 諸部族が朝貢制度に不満をもち、しばしば中国に侵入。
- 15世紀中ごろb オイラト がc エセン=ハン のもとで強大となる。
- 1449年 d 土木の変 河北省の土木堡で明の 正統帝 を捕らえ、さらに北京を包囲。
→ 明、e 万里の長城 を修復してモンゴルの侵入に備える。
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エ.朝貢体制の動揺
■ポイント 16世紀、アジアの明を中心とした朝貢世界はどのように変質したか。その背景は何か。
Text p.182
A大航海時代の影響 (第8章1節を参照)- 1492年 コロンブスの新大陸到達、1498年 ヴァスコ=ダ=ガマのカリカット到達。
- a ポルトガル のアジア進出始まる。1511年 b マラッカ王国 (イスラーム教国)を占領。
→ 東南アジアのc 香辛料 の輸出が増大 → 西欧諸国間の抗争・アジアの交易国家間の抗争が激化。 - スマトラのd アチェ王国 、ビルマのe タゥングー朝 などが明から離れて勢力拡大。
- ▲ジャワのf マタラム王国 とバンテン王国 、タイ(g シャム )のh アユタヤ朝 などが自立。
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B北虜南倭 16世紀の国際商業の繁栄 → 明の経済統制を打破しようとする動き強まる。- 意味:a 北方からのモンゴル人の侵攻と海岸での倭寇の被害が増大し明が苦慮したこと 。
- 北方:タタール部のダヤン=ハン 、モンゴルを再統一。
→ 次のb アルタン=ハン 1550年 長城を越え、北京を包囲する。さらにチベットを征服。
→ 中国人も長城の外に逃れ住み、中国風の城郭都市を造るようになる。例、フフホト。 - 南方:東南海岸でのc 倭寇(後期倭寇) の活発化。中国人中心の編成となり、密貿易と略奪を行う。
背景 室町幕府の弱体化。応仁の乱(1467~77年)以降、d 戦国時代 に入る。→ 勘合貿易の衰退。
→ 五島列島を拠点としたe 王直 が活躍。その船でポルトガル人が日本にf 鉄砲 を伝える。
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C銀 の流入。- 明、貿易の統制がゆるむ。 → モンゴルと講和して交易場を設け、さらにa 海禁 を緩和。
→ 明代の生産力の増加(次項)→ 海外貿易の増大 → 通貨の不足 → C 銀 の需要増加。 - 15世紀以降 石見銀山などのb 日本銀 が丁銀(ちょうぎん)の形で大量に輸入される。
- 1557年 ポルトガルがc マカオ を居留地とする。
- 1571年 スペインがd マニラ を拠点に中国貿易に進出。 → 太平洋をまたいだガレオン貿易を開始。
- 16世紀後半 スペイン植民地、メキシコやポトシ銀山のC 銀 がe スペイン銀貨 として流入。
- f 中国商人 が、東南アジア各地に進出。
- 意義:g 16世紀にヨーロッパ・アジア・アメリカ新大陸をむすぶ交易網が形成され世界の一体化が始まった。
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オ.明後期の社会と文化
■ポイント 明代の経済発展はどのような変化をもたらしたか。また文化にはどのような影響を与えたか。
1.明の社会
A生産力の向上 長江下流域のa 綿織物(木綿) ・b 生糸(絹織物) など家内制手工業が発達。
- c 綿花 の栽培と養蚕に必要なd 桑 の栽培が普及。
Text p.183
▲特に南京は綿織物(南京木綿)、蘇州と杭州は絹織物の中心的産地となる。 - 穀倉地帯が長江下流域のe 江浙 (江蘇・浙江省)から中流域のf 湖広 (湖北・湖南省)に移る。
→ 宋代の「江浙熟すれば天下足る」から明末には「g 湖広熟すれば天下足る 」といわれるようになる。 - 江南では宋代以来の大土地所有制とh 佃戸制 が継続。地主が小作人(佃戸)を使役して経営。
- 江西省のi 景徳鎮 のj 陶磁器 生産が増大。▲k 染付 とl 赤絵 の技法が盛んになる。
- 中国産のb 生糸 ・j 陶磁器 日本、アメリカ大陸、ヨーロッパに輸出される。
- スペインのm ガレオン貿易 マニラを経由しメキシコのアカプルコに運ばれる。(第8章1節)
解説
宋代には長江下流域の開発が進み、江蘇・浙江地方が穀物生産の中心地域となったので、「江浙(蘇湖)熟すれば天下足る」と言われた(6章2節)。産業の先進地帯であったこの地域は、明代の15世紀中頃から、綿織物業・絹織物業が起こり、そのため綿織物の原料の綿花と、養蚕のための桑の生産のため田地を綿花畑や桑畑に転換させたため、穀物生産は減少した。それに代わって、長江中流の湖北・湖南地方が穀物の中心地域となったため、「湖広熟すれば天下足る」といわれるように変化した。
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B特権商人の活動 商業・手工業の発展にともない、明朝政府から特権を与えられた商人が巨富を築く。- a 山西商人 (山西省出身・金融業中心)とb 徽州(新安)商人 (安徽省徽州出身・塩商資本)。
- c 会館 ・d 公所 の成立 都市における同郷者または同業者の互助組織の拠点となった。
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C税制の変化 16世紀 a 銀 の流通の増大に伴い、税の納入もa 銀 でおこなわれるようになる。- b 一条鞭法 の実施
それまでのc 両税法 にかわる納税法として江南から始まる。
= 内容:d 地税と徭役(力役)をまとめて銀納に一本化した 。
解説
唐中期以来の両税法の基本は、現物納と労役の二本立てであり、明でも継承され、里甲制の下で土地台帳である「魚鱗図冊」と租税台帳である「賦役黄冊」によって維持されてきた。しかし、16世紀頃から綿織物や絹織物、陶磁器、茶などの作業が発展し、農村にも銀が流通して貨幣経済が浸透すると、貧富の差が拡大し、税収が困難になった。そのような状況に対応したのが一条鞭法である。なお、このとき賦税(土地税)と徭役(人頭税)の区別がなくなったわけではなく、いずれもが銀納となったということで、徭役が土地税に組み込まれて消滅するのは、次の清の18世紀の新税制「地丁銀」によってである。
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D貧富差の拡大 商人で地主になるもの、地主で都市に住むものが増加(特に江南)。- a 郷紳 科挙合格者や官僚経験者で郷里の名士とされた家。清代まで続き、文化の担い手となる。
- ▲佃租(小作料)軽減を求める佃戸と地主の抗争=b 抗租運動 が激しくなる。
- ▲1448~49年 c 鄧茂七の乱 福建省で起こった抗租運動。数十万の農民が参加したが鎮圧された。
→ 明末・清初には家内奴隷の解放運動である奴変、都市下層民の反権力闘争である民変もおこる。
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・明の皇帝専制体制の動揺が深まる。一方、書画や文学、儒学などの新しい文化が生まれる。
2.明代の文化
A 美術 郷紳など富裕階級が文化生活を楽しむなかで、書画が発達。
B 文学 木版印刷の発達 → 書物の出版が急増 → 文人の活動が盛んになる。
C 儒学の新展開 a 朱子学 が体制化に対する反発から新しい思想が起こった。
D 科学技術 農業など諸産業の技術研究書が作られ、経世致用の実学がおこる。
※明代の文化の要点
- 仇英らは院体画系の北宗画(北画)を継承。
- 明末のa 董其昌 は、高級官僚を辞し、画家・書家として文人画(南宗画)を大成した。
- 口語で書かれた通俗的な長編読み物=a 小説 が発達。
四大奇書 :b 『三国志演義』 ・c 『水滸伝』 ・d 『西遊記』 ・e 『金瓶梅』 - 戯曲 『牡丹亭還魂記』など。 → 都市や農村の劇場で、盛んに演じられた。
- 16世紀始めb 王陽明(王守仁) がc 陽明学 を完成させた。宋の陸九淵の思想を発展させる。
= d 心即理 (心の中に真理がある)、e 致良知 (ありのままの善良な心をめざす)、
f 知行合一 (認識と実践を一致させる)などを説いて朱子学を批判。庶民にも支持広がる。 - ▲明末、g 李贄(李卓吾) は朱子学の礼教を偽善として非難、男女平等を説き投獄される。
- a キリスト教宣教師 によって伝えられた西洋の科学技術の影響を受けた。
- 李時珍『b 本草綱目 』薬草に関する研究書。
- 徐光啓『c 農政全書 』古来の農法を集大成した。
- 宋応星『d 天工開物 』古来の産業技術を分類し、図解付きで解説した。
→ これらの西洋技術は、日本などの東アジア諸国にも影響を与えた。
Text p.184
E キリスト教の布教 16世紀末からカトリックの布教が盛んになる。- 背景 1512年 ドイツのa 宗教改革 → カトリックの反宗教改革の動き(第8章3節参照)
- イエズス会のb フランシスコ=ザビエル 、日本布教の後、中国布教を目指すも、1552年に広州港外で死す。
- c マテオ=リッチ 17世紀始め北京で布教開始。中国名d 利瑪竇 。
→ 士大夫層を通じ、天文・暦法・地理・数学・砲術など紹介。
e 徐光啓 の協力で『f 坤輿万国全図 』を作成(1602年)。
→ 中国で最初に製作された世界地図。日本にも伝えられる。 - g アダム=シャール 、e 徐光啓 の協力で、西洋暦法によって、
『h 崇禎暦書 』を作成。 → 清の時憲暦、日本の貞享暦につながる。
また、ユークリッドの幾何学を翻訳し 『i 幾何原本 』 を刊行。
c マテオ=リッチ とe 徐光啓
- a 儒学では 朱子学の体制化に反発して陽明学がおこった。
- b 文学では 口語体の通俗小説が流行し、元代に続いて庶民文化が栄えた。
- c 美術では 郷紳などの富裕階級の文人画が隆盛した。
- d イエズス会宣教師によって西洋科学技術が伝えられた。
解説
キリスト教・カトリックの中国布教は16世紀のイエズス会宣教師の活動から本格化した。彼らは、仏教や道教は偶像崇拝であるとして否定したが、儒教についてはその「天帝」の概念をキリスト教の神の理念に近いところから全面的な批判をさけ、むしろ儒教的な儀礼や先祖崇拝を認めた。その結果、明の宮廷の徐光啓のような高官の中に信者も獲得した。しかし、同じ時期の日本での布教では数万単位の農民の入信があったが、中国では一般庶民にはなかなか浸透しなかった。中国のカトリック布教は、科学技術の紹介などと共に知識人の中に留まったのが特徴とうことができる。なお、イエズス会の儒教の伝統儀礼を認める布教姿勢は、後に中国布教を開始するフランチェスコ派などから批判されるようになり、清朝のもとで「典礼問題」が発生する。
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カ.16~17世紀の東アジアの状況
■ポイント 明から清への交替は東アジア世界にどのような変化を及ぼしたか。
1.日本を中心として見た東アジアの状況
A戦国時代 の終わり。
- 1543年 a ポルトガル人 の種子島渡来。b 鉄砲 の伝来。
- 1549年 c フランシスコ=ザビエル の来日 キリスト教の伝来 。
- 1557年 d マカオ を拠点としたポルトガル人が、平戸、長崎に進出。e 南蛮貿易 が始まる。
- 1571年 スペイン人 f マニラ を拠点に、メキシコとの貿易を開始。
- b 鉄砲 の普及 → 織田信長 の統一事業進む。イエズス会などの宣教師によるキリスト教の布教が進む。
▲キリシタン大名によるローマ教皇への遣使( 天正遣欧使節 ) 1582年出発 1590年帰国。
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B豊臣秀吉 の統一。- 1587年 バテレン追放令 宣教師は追放されたが、貿易は活発に続けられる。
- a 豊臣秀吉の朝鮮侵略 1592~1598 朝鮮ではb 壬辰・丁酉倭乱 という。
→ 明の援軍とc 李舜臣 の水軍(d 亀甲船 )、義兵の活躍により撃退される。
→ 朝鮮は国土が荒廃し、明は国力衰える。豊臣政権も崩壊早まる。
解説
豊臣秀吉は明を征服する意図を持ち、朝鮮にその先導を要求したが、拒否されたので出兵した。背景には、戦争によって家臣に領地を与え続けなければならない軍事的封建体制があった。しかし無謀な出兵は豊臣秀吉の死によって中止され、むしろ政権の崩壊を早めた。また朝鮮の国土、産業は荒廃し、この後の長い停滞が始まった。多大な援軍を出兵した明も国力を消耗し、滅亡を早めた。その一方で、豊臣軍として出兵した大名は多くの朝鮮人捕虜を連行して帰国し、彼らによって陶磁器や印刷技術、朱子学の学問など最新情報がが伝えられ、日本の文化に大きな刺激を与えた。
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Text p.185
C徳川家康 の統治 1603年、江戸幕府を開く。- a 朱印船貿易 を促進 日本人の海外渡航の最盛期となり、東南アジア各地にb 日本町 が生まれる。
- 1600年 オランダ船 リーフデ号が漂着 1609年 c オランダ との交易始まる。
d イギリス は1613年に平戸に商館を設ける。→ ポルトガル、スペインの排斥をはかる。
▲伊達政宗の 慶長遣欧使節 メキシコ、スペイン、ローマに派遣。1613年出発 1620年帰国、交易開始できず。 - オランダ人 1624年 e 台湾 に進出 ▲f ゼーランディア城 を築く。
→ アジアの貿易をめぐり、中国人・日本人・ポルトガル人・オランダ人が争う。 - 1623年 アンボイナ事件起こる。(9章2節) → d イギリス の東アジアからの後退。
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D日本の鎖国 江戸幕府のキリスト教禁止と貿易統制を目的とした政策。- a キリスト教禁止令 1612 直轄領に発令、1613 全国へ発令。
- 貿易の統制 1616年 中国船を除き、外国船の来航を平戸・長崎に限定。
→ 1623年 イギリス、平戸商館を閉鎖。1624年 スペイン船の来航禁止。 - 鎖国の完成 1635年 日本人の海外渡航および帰国を全面禁止。 1637年 島原の乱、起こる。
1639年 b ポルトガル 船の来航を禁止。
1641年 c オランダ の商館をd 長崎 の出島に移す。
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・日本は19世紀前半までd 長崎 での中国(清)とオランダとの貿易のみとなる。
Text p.186
2.中国東北地方の変化
A女真 ツングース系民族。女直ともいう。中国の東北地方で農牧・狩猟生活を営む。
- 後に信仰する文殊菩薩から自らをa 満州 に改称、その地を満州(マンチュリア)というようになった。
- 明の支配下にあり、薬用人参や毛皮の交易に従事。部族間の争いが激しくなる。
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B金 の建国 16世紀末 a ヌルハチ が自立し、部族を統一。- 1616年 b アイシン (c 後金 ともいう)を建国。 → 遼東平野に進出、明を圧迫。
- d 八旗 を編成。狩猟組織をもとにした女真の軍隊組織。
→ 所属する武人は旗人といわれて旗地を与えられ、支配階級を形成する。 - モンゴル文字をもとにe 満州文字 を作る。清朝では漢字と併用される。
解説
ヌルハチは、女真の中の建州女真に属し、姓はアイシンギョロ(愛新覚羅)。1583年に自立して次々と他の女真の部族を従え、1616年に自分の姓を国号としてアイシンを建国した。この国は、漢字ではかつての「金」に続く女真の建てた国なので「後金」と称した。ヌルハチは明軍を破って遼東半島に進出して瀋陽(奉天)を都とし盛京と名づけた。自身も山海関を越えて中国本土に侵入を試みたが、1626年、カトリック宣教師が製造した火砲によって武装した明軍との戦いで、砲弾に当たり負傷した。それがもとで同年死去した。
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C清 1636年 第二代a ホンタイジ 皇帝を称し、国号を改める(太宗)。- 内モンゴル( チャハル部 )、朝鮮を制圧し、長城以南に侵入、蒙古・漢人の八旗も組織。
→ 明軍を脅かす。明は軍事費増大のため重税を農民にかける。
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3.明から清へ
A明の衰退 16世紀後半 a 北虜南倭 に苦しむ。軍事費が増加、財政難に陥り、衰退を早めた。
- 一方で、巨大な陵墓(明の十三陵)の造営を続け、財政難がさらに深刻化。
- 1572年 b 張居正 の改革 皇帝c 万暦帝 の時の内閣大学士。一条鞭法の普及などをはかる。
→ 中央集権化と財政の再建を目指すが地方出身の官僚の反発を招き、失脚。 - d 東林派 と非東林派の党争が激しくなる。顧憲成らが無錫に再建した東林書院を中心とした官僚たち。
→ e 宦官 の横暴 → 社会不安高まり、各地に暴動起こる。 - 1592~1598年 f 秀吉の朝鮮侵略 → 明は援軍を送り疲弊する。
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B明の滅亡- a 金 (後金)がたびたび長城を越えて侵入し、明を脅かす。
- 明の重税と大飢饉を背景に、各地に農民反乱が起きる。
- 1644年 b 李自成の乱 が起こる。反乱軍、北京を占領し、最後の皇帝崇禎帝が自殺し明が滅亡。
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・清軍が長城内に入り、北京を占領し、遷都。清の中国全土支配が完成。(次節へ)