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ラプラプ

1521年、スペインのマゼラン船団と戦ったフィリピンの首長。マゼランの貢納とキリスト教改宗の要求に反発し、スペイン軍を襲撃、マゼランを殺害した。

 フィリピンの一首長で、1521年マゼランの率いるスペイン兵との戦いに勝ち、マゼランを殺した。現在でもフィリピンでは国民的英雄として名高い。フィリピンのセブ島に現れたマゼランは、大砲を撃ち放ちて威嚇した後に上陸し、首長フマボンに対し食糧の貢納とキリスト教への改宗などを要求した。恐れたフマボンは食糧を供給し、一族をあげて約500人がキリスト教の洗礼を受けた。さらに周辺の首長に対してセブ島首長への服従を迫った。

マゼランとの戦い

 ところがセブ島の対岸の小島マクタン島の首長ラプラプはその要求をはねのけ、「予が服従するのはわが同胞だけだ!」と言い放った。マゼランはマクタン島を砲撃したがラプラプは弾の届かないところに島民を避難させていた。島に近づいたが珊瑚礁のため海岸に近づけず、冷静さを失ったかマゼランはわずか49名の兵士を率いて海に飛び込み上陸した。待ちかまえたラプラプは周辺からの応援も得て約1500人で襲いかかった。マゼランは毒矢に右足を射られて歩けなくなったところを、ラプラプの振り下ろした杵の一撃で殺された。英雄ラプラプの像は現在、マクタン島の浜辺に建てられている。また合戦の様子は、現在でも毎年同じ4月27日のマクタン島の祭りで再現されているという。<本多勝一『マゼランが来た』1989 朝日新聞社刊 p.14-31>

マゼラン航海記の伝えるラプラプ

 マゼラン船団に同行したピガフェッタの残した『最初の世界周航』には次のように伝えられている。
(引用)(1521年)4月26日金曜日、マタン島の領主ズラが息子のひとりをよこして、提督(マゼラン)に2頭の山羊を贈り、つぎのことを伝えさせた。ズラは提督に対して完全に約束を履行していたが、その島のもうひとりの領主セラプラプ(シラプラプ)はスパーニャ国王に臣従することを拒否しており、そのため貢納を完全に履行することはできない、というのであった。だから明晩ただ一隻のバッテルロ(小型舟艇)に兵員を満載して派遣してほしい、自分が加勢して戦うから、と要請した。提督はみずから3隻のバッテルロを指揮して行くことを決心した。…(中略)…われわれは夜が明ける3時間前にマタンに到着した。しかし提督はすぐに戦闘をはじめることはのぞまなかった。まずモロ(シャム商人)を派遣して説得し、かれらがもしスパーニャ国王に臣従し、そしてキリスト教徒のスブ王を君主としてみとめ、さらにわれわれに貢納するならば、提督はかれらの友人となろう、しかしもしそれと反対ならば、われわれの槍の威力がどのようなものであるかを今に知らせてやろう、と伝えさせた。かれらはこれにたいして、もしわれわれが槍をつかって攻撃するならば、自分たちにもひにあぶって鋭くした竹槍と棍棒がある、と応じた。……<『マゼラン最初の世界一周航海』所収 ピガフェッタ「最初の世界周航」長南実訳 岩波文庫 p.116->
同書でこの後のマゼランの死について詳しい情報を伝えている。 → マゼランの項へ