マゼラン/マガリャンイス
16世紀はじめ、スペイン王の命令で世界周航を試みたポルトガル人の航海者。1519年に西回り航路を取り出航、マゼラン海峡を発見して太平洋に乗りだし、1521年にフィリピンに到達、彼自身はセブ島で殺されたが、船団は1522年にスペインに戻り、最初の世界周航に成功した。
Ferdinand Magellan 1480?-1521
『マゼラン最初の世界一周航海』岩波文庫
ポルトガル人がスペイン王に仕えるまで
マゼランの前半生は謎が多いが、ポルトガル人ではじめアルブケルケの部下としてマラッカ攻撃に加わったり、香料の宝庫であるモルッカ諸島にも航行して情報を持っていたらしい。しかし何らかの理由でポルトガルから離れ、スペインのカルロス1世に西回りでのモルッカ諸島へのルート開拓を提案し、認められて契約した。Episode ポルトガルを去った事情
マゼランの航海の記録を残したイタリア人ピガフェッタは、その事情を次のように述べている。(引用)このセルラーノこそはわれらの信頼すべき提督(マゼラン)の無二の親友であり血縁の者であって、故提督がこのたびの航海を企てた動機もじつはセルラーノにあるのだ。というのは、われらの提督がかつてマラッカに滞在していたころ、セルラーノはかれに再三再四手紙を送ってこのマルーコ(モルッカ)島に滞在している模様を知らせたのである。ところで、当時ポルトガロ(ポルトガル)国王はドン・マヌエル幸運王(在位1495~1521)だったが、提督が御奉公の報酬として月額わずか1テストーネだけ給金を増してくれるよう願い出たのにたいして、これを拒絶した。そのため提督はスパーニャ(スペイン)へ移ってしまった。スパーニャの皇帝陛下(カルロス1世、ローマ皇帝カール5世)はかれの求めるだけのものをすべて与えられた。<『マゼラン最初の世界一周航海』所収 ピガフェッタ「最初の世界周航」長南実訳 岩波文庫 p.169>セルラーノ(セラン)はポルトガルのインド総督アルブケルケの部下でマゼランの同僚だった。マゼランと共にアルブケルケのモルッカ遠征に従い、彼の乗った船がその一つテルナテ島に着いた。マゼランは別な船で帰ったらしいがセルラーノはとどまり、その地が丁子の産地であることを発見した。その情報をポルトガルに戻ったマゼランに知らせたのである。ピガフェッタの話では給料の面でポルトガル王と折り合わなかったマゼランがスペイン王にその情報をもたらし、自らその地に向かうことを申し出たあのであろう。
スペイン王カルロス1世の意図
スペインはポルトガルに対抗すべく西回りでアジアへの到達をねらい、コロンブスを派遣し、1492年に西インド諸島に達した。直後にこの領国はローマ教皇の仲介による世界分割協定をむすび、さらに1494年にそれを修正してトルデシリャス条約を結んだ。この条約は地球の裏側での取り決めは含まれておらず、依然として未知の地であった。ところが1498年にヴァスコ=ダ=ガマが東回りでインドに到達、さらにカブラル、アルメイダ、アルブケルケと続くポルトガル人の東方進出が進み、1514年からはモルッカ諸島での香辛料貿易を開始した。それを知ったカルロス1世(カール5世)は、トルデシリャス条約での分界線を東半球に延長すれば、モルッカはスペイン圏に入るのではないかと考え、それを確かめるべく船団の派遣を意図した。しかし間もなく宗教改革が始まって領内は混乱し、またフランス王フランソワ1世とのイタリア戦争、さらにオスマン帝国のスレイマン1世(大帝)がオーストリア領に侵攻するなど多難であったため、財政が困窮していた。そこでフッガー家から借金して船団を派遣することにした。Episode マゼランの黒幕フッガー家
マゼランはポルトガル人であるが、その航海は純然たるスペインの事業であることに注意する必要がある。ときのスペイン王カルロス1世は、神聖ローマ帝国皇帝に選出されたばかりであったが、その際、選帝侯を買収する資金をドイツのフッガー家などの大財閥に依存したことは有名な事実である。カルロス1世はポルトガルに対抗して西回りでアジアに到達しようとしてマゼランと契約し、必要な経費の4分の3を提供したが、の費用1万ドゥカードもフッガー家から借金したものであった。フッガー家がマゼランの航海に出資したのは次のような事情があった。ポルトガルのインド航路開拓によって経済の中心地がリスボンに移ったので、フッガー家はリスボンに進出を図ったが、そこではジェノヴァやフィレンツェの商人に利権を抑えられていたため、やむなくスペインと結ぼうとしたのである。フッガー家の代理人のクリストバル=デ=アロは、スペイン宮廷で新世界開拓の責任者であったロドリゲス=デ=フォンセカに取り入り、彼と相談してマゼランを採用することを決めた。このように、マゼランの航海には、フッガー家の利害が深く関わっていた。航海の困難
1519年8月、5隻237人でセビリアを出航、大西洋を横断して南米大陸ブラジルの海岸沿いに南下しながら、西側に抜ける水路を捜した。広大なラプラタ川河口ではその水路を発見したと喜んだが、遡っても河であったことが判明した。こうして手間取る内に1520年冬にはサン=フリアン湾では3か月の越冬を余儀なくされ、その間、船団の1隻は難破してしまった。スペイン人乗組員は遂に反乱を起こし、マゼランはその首謀者を処刑して危機を乗り切ったEpisode スペイン人乗組員の抱いた疑惑
(引用)船隊員たちのあいだの不和と対立の原因というのは、マガリャネス船隊長がポルトガル人であったことから、船隊にはたくさんのポルトガル人が参加しており、そのためカスティリャ(スペイン)人とかれらのあいだには、たとえばある者はアルジュバロータの戦いとか、またあるものはトロの戦い(いずれも両国間の戦争)とか、これに類した事件を思い出して、たがいに相手に対していだいていた古い憎しみの言葉が吐かれるようになったからである。<『マゼラン最初の世界一周航海』所収 トランシルヴァーノ「モルッカ諸島遠征調書」長南実訳 岩波文庫 p.286>長い航海と過酷な気候の中でスペイン人たちの中には、マゼランはわざと航海に失敗してスペイン皇帝を欺こうとしているのだろう、スペイン人を総て殺した後、ポルトガルに帰還するのだろうと公言する者もいてマゼランに対する深い憎悪と怨恨を隠さなかったという。
マゼラン海峡の発見
1520年10月、南米大陸とフェゴ島のあいだの狭い海峡にさしかかった。二隻を探索に先行させたが、そのうちサンアントニオ号は夜陰に乗じて脱走してスペインに戻ってしまった。残された船隊は、狭い海峡を抜けて初めて、当時は「南の海」と言われていた広大な海に乗り出した。マゼランは「喜びのあまりはらはらと涙を流し、水路の出口の岬を“待望の岬(カーボ・デセアード)”と命名した。」<『マゼラン最初の世界一周航海』所収 ピガフェッタ「最初の世界周航」長南実訳 岩波文庫 p.47> この海峡は現在はマゼラン海峡といわれている。Episode パタゴニアの巨人
ピガフェッタの航海記には、マゼラン海峡を抜ける前の越冬地で、巨人に遭遇したという記事がある。彼らはウェルチェという南米大陸で狩猟生活を送っていた人々であるらしい。彼らは大きな履き物を履いていたので大足人(パタゴン)と言われ、そこからこの地はパタゴニアと言われるようになった。マゼランはこの巨人を捕らえスペインに帰ろうとしたが、途中でみな死んでしまったという。またマゼラン海峡を抜けるときに、右手の陸地に不思議な火を沢山見つけ、その島を火の島(フエゴ島)と名付けたという。<『マゼラン最初の世界一周航海』長南実訳 岩波文庫 p.35-43,276-280,294>太平洋の横断
1520年11月28日に海峡を抜け、太平洋に乗り出した。その後、壊血病になやまされながら一路西に向かい、グァムについた。マゼランは、このヨーロッパ人が初めて乗り出した海で、大きな嵐に遭わなかった幸運を喜び、この海を「平穏の海」と呼んだので、太平洋(マール・パシフィコ)と名付けられた。さらに1521年3月に太平洋の西端に位置する島々に到達した。その地は後に皇太子フェリペにちなんで、フィリピンと名づけられた。Episode 壊血病の恐怖
海峡を抜けてから(引用)3ヶ月と20日のあいだ新鮮な食べ物はなにひとつ口にしなかった。ビスコット(乾パン)を食べたが、これはビスコットというよりはむしろ粉くずで、虫がうじゃうじゃとわいており、いいところはみな虫に食いあらされていた。そして、鼠の小便のにおいがむっと鼻につくようなしろものだった。日数がたちすぎて腐敗し、黄色くなった水を飲んだ。また、主帆柱の帆桁に張りつめてあった牛の皮さえも食べた。・・・それからまたわれわれはおが屑もしばしば食べた。鼠は一匹につき半ドゥカート(昔の金貨)の値段がつけられ、しかもなかなか手にはいらなかった。しかしながらあらゆる苦労にもまして、最悪の事態というものはこうである。何人かの隊員の歯茎が歯まで腫れてきて――それは上歯も下歯もおなじことだが――、どうしても物を食べることができなくなり、この病気(壊血病)で死ぬ者が生じたのである。19人の隊員とあの巨人と・・・インディオも死んでしまった。・・・<『マゼラン最初の世界一周航海』所収 ピガフェッタ「最初の世界周航」長南実訳 岩波文庫 p.60-62>
フィリピンでのマゼラン
1521年4月7日、現在のフィリピン群島の一つ、セブ島(スブ島)の港に入港、マゼラン船隊は帆を下ろし、戦闘隊形をとり全門の大砲を一斉に発射した。住民たちとその王は非常な恐怖に突き落とされた。マゼランがこの大砲は儀礼的なものだと説明すると、セブ王は金と奴隷の商売をするためにちょうど入港していたイスラーム教徒の商人に対してと同じように、入港税を要求した。しかしマゼランは、自分は偉大な国王から派遣されて来たのであり、世界の如何なる王にも税を払うことはしない、したがって「もし平和をのぞむなら平和を、戦争をのぞむなら戦争を、そのいずれかを撰ぶがよい」と答えた。さらに通訳を介してその商人に、「自分たちの国王はポルトガルロ国王よりも兵力も船舶もさらに強大であって、スパーニャ国王と言い、すべてのキリスト教徒たちの皇帝である、だからもし友好関係を結ぶことを拒むならば、この国土をすべて破壊してしまうほどの兵員を派遣してよこすだろう」とセブ王に告げるよう伝えた。上陸後は王の使者に対して、「もしキリスト教徒になるならば、武具を一揃い贈呈しようと約束し、キリスト教徒になれば臨終の時を除いてはけして悪魔が現れることはないだろう、異教徒のままでいることは大罪を犯すことになる、などと改宗を迫った。こうしてセブ王と王妃以下の多数が洗礼を受けることになった。<『マゼラン最初の世界一周航海』所収 ピガフェッタ「最初の世界周航」長南実訳 岩波文庫 p.90-91,105> このようにマゼランは恫喝とペテンによってセブ王をキリスト教徒に改宗させたのだった。Episode マゼランの通訳
マゼランはセブ王とどのように意志を通じたのか。その通訳をしたのはマラッカの奴隷だった。(引用)マガリャネスはかつてカリクートの地方のマラッカの町でポルトガル王に仕えていた当時、この町でこの奴隷を買い取り、エスパニャに連れていき、そこでエスパニャ語を教えた。その奴隷はエスパニャ語を完全に習得し、自由自在に話すことができた。マガリャネス船隊長はこの奴隷を通してスブ島の王と言葉をかわし、たがいに理解し合ったのであるが、それはこの奴隷がその土地の言語を知っていたからではなく、じつはスブ王のそばに一人のインディオがいて、この男がかつてモルッカ諸島に住んでいたことがあり、モルッカ語(インドネシア語)をたいへんよく知っていたので、マガリャネスの奴隷と話が通じたというわけなのである。・・・すなわち、マガリャネスがまずかれの奴隷に話をすると、その奴隷はスブ王の家来であるそのインディオにこれを伝え、さらにかれが主人である王にそのことを伝えるというあんばいであった。<『マゼラン最初の世界一周航海』所収 トランシルヴァーノ「モルッカ諸島遠征調書」長南実訳 岩波文庫 p.306>このマラッカ生まれの奴隷(名はエンリケ)は、マゼラン死後も自由の身になれなかったことを怨み、やがて脱走し、船隊の行動を敵の首長に密告、それによってマゼラン死後に船隊の指揮を執っていたフワン=セラーノが殺されることになる。<『マゼラン最初の世界一周航海』所収 ピガフェッタ「最初の世界周航」長南実訳 岩波文庫 p.122>
マゼランの死
マゼランの死は、セブ島とその対岸のマクタン島の首長の争いに巻き込まれたものだ、という説明がされることが多い。それだとマゼランは“不慮の死”に遭遇したととられかねないが、事実はそうではなかったようだ。マゼラン船隊の兵士はセブ島の廻りの島の村を偶像を破壊するという名目で焼き払い、キリスト教に帰依したセブ王に従うよう強制した。しかし、マクワン島の首長ラプラプは、改宗を拒否し、セブ王への服従も拒否した。そこでセブ王はマゼランにマクワン島を討伐するよう依頼した。マゼランは自ら60名の隊員を連れて出かけた。この様な少人数ででかけたのは現地人を見下していたからであった。マゼランが上陸しようとすると、ラプラプは1500人ほどを率い、一斉に喊声を上げ襲いかかってきた。マゼランは火縄銃で応戦したが、「かれらはけっして一ヶ所にじっとしていることはなく、あちらこちらへと飛び回った。そして楯で身をかくしながら、雨あられのように矢と竹槍と、それに火にあぶって固くした鋭い棍棒、石と泥を投げつけるので」ほとんど防ぎようがなかった。それでも上陸したスペイン兵は家屋に火を付けた。自分たちの家が焼けるのを見てかれらはますます獰猛になり、一本の毒矢がマゼランの右脚に刺さった。この乱戦でマゼランは戦死し、残った兵士は命からがら本船に戻ったのだった。マゼラン戦死の状況はピガフェッタ「最初の世界周航」に詳しく伝えられている。
(引用)敵はどの人が提督(マゼラン)であるかを知って彼に攻撃を集中し、そのため冑が二度もはねとばされた。しかし提督は立派な騎士として雄々しく振る舞った。こうしてわれわれは数人の同志と一時間あまりたたかった。もはや退却しようとしなかったが、そのときひとりのインディオ(訳者注 ピガフェッタはこの地をインディアスの一部と思っていた)が提督の顔面めがけて竹槍を投げつけた。一瞬、提督は自分の槍でその相手を突き殺した。提督はその槍を敵の体に突き刺したままにし、剣の柄に手をかけた。しかし半分しか抜くことができなかった。肘のあたりを竹槍で刺されていたからだ。これを見ると敵は全員提督に襲いかかり、一人の敵兵が大きな広刃刀で、提督の左脚に切りつけた。提督はうつぶせに倒れた。敵は鉄の槍と竹の槍と広刃刀をいっせいに提督に浴びせかけ、かくて、われらの明鏡、われらの光明、われらの慰藉、われらの無二の指導者はついに息が絶えた。<『マゼラン最初の世界一周航海』所収 ピガフェッタ「最初の世界周航」長南実訳 岩波文庫 p.119-121>これを見ても、マゼランの死は“首長同士の争いに巻き込まれた不慮の死”などというものではなく、マゼランがフィリピンの人々にしかけた戦争で、反撃を甘く見たために殺された、というのが正しい。<本多勝一『マゼランが来た』1989 朝日新聞社刊 p.14-31>
モルッカ諸島到着
残った3隻はセバスチャン=デル=カノ(略してエルカノともいう)に率いられて、ボルネオ島などに寄港した後、1521年11月8日、モルッカ諸島の一つティドーレ島に到着した。この島の王はモルッカ諸島のもう一つのテルナテ島の王と争っている最中で、10年前にテルナテに来ていたマゼランの親友フランチェスコ=セルラーノはその戦いに巻き込まれて殺されていた。残っていたポルトガル人は、スペイン船団に本国から援軍が来ると告げて牽制した。この付近の島々で丁子や肉ズクなどの貴重な香辛料が実っていることを確かめたスペイン人たちは、ティドーレの王に沢山の贈り物をして丁子や肉ズクを手に入れ、大量に積み込んで急いでスペインを目指すことになった。帰路の苦難
モルッカから西に向かうのはポルトガルの勢力圏を航行するという危険を冒すことになる。しかし、モルッカから引き返して太平洋を東に向かうのも未知の航路であった。そこですでに二隻だけになっていた船団は、ヴィクトリア号は西回りでスペインを目指し、トリニダート号は東回りでメキシコを目指すことになった。ただ一隻となったヴィクトリア号はカノに率いられ、ティモール島に立ち寄ってからはポルトガル船の目を盗みながらどこにも寄港せずインド洋を横断し、さらに無寄港で喜望峰を廻り、約2ヶ月の間食料のないまま航行して(この間21人が死んだという)、ようやく1522年7月9日ヴェルデ岬諸島に着いた。そこでもポルトガル官憲に捕まるのを恐れてすぐ出航し、1522年9月6日にスペインのサンルカル港、9月8日、セビリアに入港し、世界周航を完成させた。この時生存者は18人だけだった。<『マゼラン最初の世界一周航海』所収 ピガフェッタ「最初の世界周航」長南実訳 岩波文庫 p.228-253>なお、東回りでメキシコを目指したトリニダート号はハワイ付近まで行ったようだが、貿易風(東風)に押し戻されてモルッカ諸島に戻ってしまい、そこでポルトガル人の捕虜となってスペインに帰ることができなかった。このようにスペインにとっては太平洋を東に横断することが次の課題となる。
Episode 日付の変更に気付く
1522年7月9日水曜日、ヴェルデ岬諸島に着いたとき、航海中ずっと日誌を付けていたピガフェッタは不思議なことに気がついた。(引用)ところでわれわれはバッテルロ(小舟)の連中に、上陸したならば、今日は何日であるか日付を聞いてくるように、と言いつけた。するとポルトガルロ人たちからは木曜日だという返事であった。われわれはひどく驚いた。なぜならばわれわれには今日は水曜日だからである。われわれにはどうしてまちがえたのか説明がつかなかった。私は毎日、ずっと病気にはかからなかったから、一日もかかさずに記録していたのである。しかし、あとで教えてもらったのであるが、それはまちがいではなかったのだ。つまり、西へ西へと航海してもとの出発点に帰ってきた場合、つまりこれは太陽の運行とおなじことをするわけであるが、われわれが二十四時間だけ先に進んだことなるのは明白な道理である。<『マゼラン最初の世界一周航海』所収 ピガフェッタ「最初の世界周航」長南実訳 岩波文庫 p.251-252>