フィリピン
南シナ海と太平洋にはさまれた、7100あまりの島々からなる国。1521年、スペインのマゼランの到達以来、長くスペインの統治を受ける。1898年の米西戦争の結果、アメリカ領となり、日本軍の侵攻と支配を受けた後、1946年に独立した。現在の「フィリピン共和国」は、人口約6800万人、首都はマニラ。
フィリピン Yahoo Mapによる
1521年、スペイン艦隊を率いたマゼランが上陸、ついでスペインは1564年に領有を宣言し、1571年にはマニラ市を建設して、太平洋を隔てた植民地メキシコとの間でガレオン貿易を行った。スペインの植民地支配は19世紀末まで続き、その間、カトリックが浸透する。
19世紀後半にホセ=リサールによる独立運動が開始され、1898年のアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)の時に独立を達成するが、独立を認めないアメリカとの間のフィリピン=アメリカ戦争を経て、アメリカ領となる。第二次世界大戦では日本軍が占領して、1942年から軍政を布いた。大戦後の1946年7月に完全独立を達成したが、アメリカへの軍事的従属を強め、国内ではマルコス大統領による開発独裁が続いた。1986年、「ピープルパワー革命」といわれた民主化運動が激化し、マルコスは失脚、民主化が実現した。現在は東南アジア諸国連合の重要な一員となっている。
- (1)マゼラン以前
- (2)スペイン植民地の成立
- (3)スペインの統治
- (4)米西戦争とフィリピン=アメリカ戦争
- (5)アメリカの統治
- (6)日本軍の占領と軍政
- (7)フィリピン共和国の独立
- (8)マルコスの開発独裁
- (9)現代のフィリピン共和国
フィリピン(1) マゼラン以前
16世紀始め、マゼラン船団が到達して以来、スペインが進出したが、それ以前に南部にはイスラーム教の文明圏に入っていた。
フィリピンのイスラーム教
マゼランの到達以前にフィリピン南部にはイスラーム教が伝えられ、ムスリム商人の交易圏に入っていたことを忘れてはいけない。イスラーム教の教えは早くも10世紀に南方の海洋を経てムスリム商人によって伝えられていた。その後ウラマーやスーフィーの活動によって13世紀ごろには南部諸島が完全にイスラーム化した。1521年、マゼランが到達したころは、イスラーム教徒の中心はスールー諸島であり、スペインは当初はムスリムの少ない北部のルソン島に支配の拠点を置いた。この地で意外にもイスラーム教徒に出会ったスペイン人は、本国でアラブ人やベルベル人を指す「モロ」(ムーア人)という呼び名でフィリピンのムスリムを呼んだ。スペイン人入植者との戦争はモロ戦争といわれ、現在でも南部のムスリムでフィリピンからの独立を主張している勢力はモロ解放戦線と名乗っている。 → 東南アジアのイスラーム化マゼランの到達
1521年、スペインの派遣したマゼラン船団が、フィリピン諸島の一つ、現在のスルアン島に到達した。さらにマゼランはセブ島に至り、その日が聖ロザリオの日だったので、「聖ロザリオ諸島」と名付けた。彼はセブ島の首長に貢納とキリスト教への改宗を強制することに成功したが、服従を拒否した対岸のマクタン島の首長ラプラプを討とうとして、4月27日にかえって殺されてしまった。当時のこれらの島々には首長の率いる多くの部族が分かれており、南部のミンダナオ島などにはイスラーム教が伝えられていた。フィリピンの名の起こり
その後、スペインはこの地の征服を目指して艦隊を何度か派遣したが、その中で1542年の遠征隊が、この地を時の皇太子(カルロス1世の子、後のフェリペ2世)の名にちなみ、フィリピンと名付けた。ただし、この段階でスペイン領となったわけではないので注意すること。注目 近年、フィリピン国民は、「フィリピン」という征服者スペイン人の名に由来する国名を恥辱と見なし、マゼランを倒したマクタン島の首長ラプラプと、マニラ防衛戦の雄ソリマンの名を組んだ「ラポリマニア」、またはスペインからの独立運動に殉じたボニファシオとリサールの両英雄の名を合わせた「ボニサリア」に変えようとしているという。またタガログ語で「気高い、尊厳のある」と言う意味の「マハルリカ」も候補に挙がっている。スペイン統治時代が遠ざかるにつれて、マニラでスペイン語も通用しなくなった。アメリカ合衆国の支配が終わってからは、英語は次第にタガログ語を主とした新国語フィリピーノにとってかわられようとしている。<松田毅一『黄金のゴア盛衰記』1977 中央公論社 p.216>
フィリピン(2) スペイン植民地の成立
1564年、スペインはフィリピン植民地支配を本格的に開始し、1571年に拠点としてマニラを建設した。フィリピン植民地支配と共に太平洋を横断するガレオン貿易を開始した。
太平洋往復航路の開拓
スペイン船はメキシコから貿易風の東風に乗って太平洋を横断しフィリピンに来たが、帰路は逆風となるので航行は困難であった。フィリピン経営にはメキシコへの安全な帰路が必要であった(西回りのインド洋航路はポルトガルに抑えられ、利用できなかった)が、何度かの試みに失敗していた。レガスピの同僚ウルダネーダは、「メキシコ帰還航路の発見を申し出て、大胆にも高緯度海域まで航行し、大きな北よりの弧を描きつつ(大圏航路をとって)太平洋を横断してこの離れ技に成功を収めた。この時ウルダネーダは少なくとも北緯42°まで行っている。かくして彼は《貿易風》という禁止帯を回避し、そして西航に比べれば東航は帆走に二倍の時間を要したとはいえ、この航海が可能であることを実証したのである。この航路は彼の航海以来、定期的に使われ、《ウルダネーダの道》として知られるに至る。 → 太平洋マニラ建設とガレオン貿易
この《ウルダネーダの道》を利用してメキシコに戻ることが可能になったことから、スペインのフィリピン経営が本格化した。総督レガスピは、フィリピン支配の拠点として最大の島のルソン島のマニラに着目し、1570年に艦隊を派遣して総攻撃して陥落させ、翌1571年6月にマニラ市に入城した。これ以後はマニラ←→アカプルコ間の定期航路が開かれ、この航路には大型のガレオン船が使われたのでガレオン貿易とも言われ、18世紀末まで継続して繁栄した。
日本とフィリピン
16世紀の倭寇は当時、呂宋(ルソン)といったフィリピンの北部にも拠点を設けていた。倭寇はスペインにとっても脅威であり、マニラ建設直後の1574年には林鳳という倭寇に襲撃されている。倭寇の活動は少しずつ収まっていったが、1592年には豊臣秀吉がフィリピン総督に帰順を勧め、従わない場合は征伐するという国書を送り、スペインを驚愕させた。フィリピン総督が交渉を遅延させるうちに秀吉の朝鮮出兵も失敗に終わり、秀吉のフィリピン出征は実行されなかった。次の徳川家康は一転してスペインとの友好策をとり、マニラの総督宛にスペインとの貿易、ガレオン船の日本寄港、日本人のメキシコへの渡航を申し出た。また朱印船貿易を活発に行ったので日本人も多数、マニラに来るようになり、一時は3000人を超す日本町がマニラに造られた。豊臣秀吉に始まるキリスト教の禁止の動きも強まり、1614年には高山右近らの日本人キリシタンが、長崎からマニラに追放されて生きた。ついで家康死後には幕府はキリスト教禁止をさらに徹底して鎖国に踏み切り、日本人の海外渡航禁止、スペイン人の追放に打ち出したため、フィリピンとの関係も閉ざされることとなった。フィリピン(3) スペインの統治
スペイン統治は1571年から1898年まで続き、マニラはそのガレオン貿易の拠点として繁栄した。
エンコミエンダ制による支配
当初のスペイン支配はラテン=アメリカ地域と同じくエンコミエンダ制がとられ、フィリピン占領に功績のあったスペイン人に一定の地域の原住民の管理を任せ、キリスト教の布教を条件に租税の徴収をさせた。フィリピンのエンコミエンダ制は1884年まで存続し、その間スペイン人受託者(エンコメンデロ)が大きな力を持ち植民地での収奪、腐敗が起こった。カトリック教会の役割
スペインのフィリピン支配の特徴はカトリックの強制布教と結びついていたことである。カトリック教会はマニラ総督を後ろ盾に、教区司祭を通じて聖俗の両面から原住民を支配した。フィリピン原住民の反抗は、ミンダナオ島を中心としたイスラーム教徒の抵抗(スペイン側はこれをモロ戦争といった)がスペイン支配時代を通じて続いた。またキリスト教化した原住民の中にも、総督府と教区司祭の支配に抵抗が始まり、それは独立まで続いた。マニラの繁栄
マニラは植民地支配の中心地、ガレオン貿易の拠点として栄えたが、次第に華僑(中国人及び、中国系メスティーソ)にその経済の実権を握られていった。Episode 333年のスペイン支配
1571年5月16日、レガスピが230人のスペイン兵と600人以上の傭兵を乗せた20隻の船団でマニラに再入港した。フィリピン史で言う「333年のスペイン支配」とは、1565年のレガスピのセブ島到着から起算し、1898年のフィリピン共和国の成立で終わる期間を指している。実際には1571年のレガスピ隊のマニラ転進で本格的なフィリピンの植民地化が開始されたのである。<鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』1997 中公新書 p.26>フィリピン(4) 米西戦争とフィリピン=アメリカ戦争
19世紀末、ホセ=リサールに指導されたフィリピン民族運動が高揚、1896年にはフィリピン革命が勃発する。革命は失敗したが、1898年に米西戦争が起こったことを受けて、1899年1月フィリピン共和国は独立宣言を行う。米西戦争の結果、フィリピンを領有したアメリカはフィリピンの独立を認めず、同年、フィリピン=アメリカ戦争が起こる。1902年にフィリピン共和国は敗れて倒され、アメリカの植民地支配が開始される。
スペインからの独立運動
フィリピンは、16世紀以来、スペインの植民地支配を受けていたが、その間、1840年代から民族的自覚が始まりフィリピン独立運動が継続していた。1892年にはその指導者ホセ=リサールはフィリピン民族同盟を組織して、社会改革を目指したが、危険人物視したスペインによって逮捕された。フィリピン革命
ホセ=リサールの運動を継承した ボニファシオは、より戦闘的な「カティプーナン」を組織し、1896年8月に独立をめざす武装蜂起を決行した。これが、フィリピン革命の始まりであり、恐怖心を感じたスペイン当局は獄中のホセ=リサールを殺害した。しかし、革命派の内部は、独立と共に社会改革を目指す急進派に対し、上層市民による穏健な運動をめざすアギナルドなどの穏健派の対立が激しくなり、まもなく運動は分裂し、アギナルドが主導権を握り、ボニファティオを処刑した。アギナルドは革命をあきらめ、スペイン当局と妥協して香港に亡命したため、フィリピン革命は失敗に終わった。しかし、スペインも植民地支配を継続する力を失っていた。そこような情況の中でスペイン勢力が後退すると、替わってアメリカ帝国主義がフィリピンに介入し、再植民地化を図ることとなった。米西戦争
1898年4月、キューバ問題から端を発したアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)が起こると、アメリカはスペイン領のフィリピンにも侵攻する機会とした。アメリカ海軍は5月1日、マニラ湾を攻撃、大小10隻のスペイン艦隊を全滅させた。陸上に拠点を持たないアメリカ軍は、急遽、香港に亡命中のアギナルドをアメリカ艦船でフィリピンに上陸させて、フィリピン軍とともにスペイン軍を攻撃する態勢をとり、8月13日マニラ総攻撃を行い、スペイン軍を降伏させた。フィリピン共和国の独立宣言
亡命先の香港からアメリカ艦船でフィリピンに戻ったアギナルドは、アメリカに協力することによって独立を保証されると考え、1898年6月12日にフィリピン共和国の独立を宣言した。マニラはまだ解放されていなかったので、独立宣言はカビテ州カウィットのアギナルドの生家で行われた。9月にはマニラ北方のマロロスに移り、翌1899年1月に共和国議会を開催、アギナルドを初代大統領に選出した。このフィリピン共和国を、第1次フィリピン共和国、あるいはマロロス共和国とも云う。アメリカ、フィリピンを2000万ドルで買う
アメリカ=スペイン戦争はアメリカの勝利に終わり、1898年12月、パリ条約(パリ協定)が締結され、アメリカはスペインからフィリピンを2000万ドルでアメリカに譲渡された。アメリカは、フィリピンの独立に口頭の約束を与えていたが、強固なアメリカ帝国主義の主張により、フィリピン独立を認めず、遅れたフィリピンの発展にはアメリカの指導が必要という口実の元に植民地支配を開始した。アギナルドらの独立運動は、フィリピンの安定の障害になるものとして排除されることとなった。フィリピン=アメリカ戦争
アメリカはフィリピン共和国を認めなかったので、アギナルド大統領のフィリピン共和国(マロロス共和国)の民衆はスペインに続いて新たにアメリカに対しても戦いを開始することとなり、翌1899年2月には、アメリカとの間でフィリピン=アメリカ戦争となった。アギナルドのフィリピン共和国はゲリラ戦術を採って抵抗したがアメリカ軍の激しい掃討戦によって次第に後退し、1902年に屈服させられた。布引丸事件 アギナルドは、日本に支援を求めたが、政府の正式な援助はなく、宮崎滔天らの努力で旧式の銃と弾薬が送られたが、それを積んだ布引丸が1899年7月に暴風雨のために沈没したため支援は実現しなかった。フィリピン共和国は短命に終わり、アメリカ帝国主義の植民地支配を受けることとなった。
帝国主義によるアジア分割
フィリピン=アメリカ戦争はアジアにおけるアメリカ軍の軍事行動の最初のものであり、アメリカ帝国主義のアジア進出の第一歩であった。その結果、フィリピン支配はアメリカ植民地に組み込まれることとなった。フィリピン=アメリカ戦争は帝国主義列強による世界分割の一つの動きであったと言える。そのころ、大陸進出を目指す日本は、日露戦争をへて朝鮮半島植民地化を進めていた。日本の朝鮮半島支配と、アメリカのフィリピン支配を相互に承認しあったのが、1905年の桂=タフト協定である。これによって、日本の韓国支配権を認める代わりに、アメリカのフィリピン支配を日本に認めさせるという世界分割協定を結んだのだった。フィリピン(5) アメリカの統治
アメリカは1902年からフィリピン統治を本格化させたが、なおもゲリラによる抵抗は続いた。1907年までに武力抵抗を押さえつけると、次第に形式的な自治を認め、議会の開設などをアメリカ主導で行う。また学校教育を通じて英語を普及させ、アメリカとの同化をはかった。しかし、世界恐慌を期にフィリピン統治の経済的マイナス面が強まったため、アメリカ側にフィリピンを独立させる動きが強まり、1934年、アメリカ議会でフィリピン独立法が成立、10年後の独立を約束した。
1907年の議会開設
段階的な自治容認の最初として、1907年にはフィリピン議会を開設し、内政におけるフィリピン人への権限移譲に踏み切った。自治を一部認めた形となったが、独立は認めなかった。この間、アメリカは学校を建設しながら英語教育を徹底させるなど、同化をはかっていった。しかし、地主と小作人などの古い農村の矛盾は依然として深刻であり、アメリカ資本主義に組み込まれたために貧富の差も大きくなったことから、次第に民族主義と共に社会主義、共産主義の影響が強まり、1929年にはフィリピン社会党、1930年にはフィリピン共産党が結成された。ケソンらの独立運動
第一次世界大戦後の民族自決の高揚という動きの中で、フィリピン人の自治要求も強まった。フィリピン国内にはアメリカによる併合を求める動き(連邦党はフィリピンをアメリカの州にすることを主張)もあったが、アメリカと協調を図りながら独立を実現するというケソンなどの知識人を主体とした運動も強まっていった。アメリカ、独立を約束
アメリカ内部にもフィリピンの独立を支持する声も強まり、フランクリン=ローズヴェルト大統領の時、1934年にフィリピン独立法(タイディングス=マクダフィ法)がアメリカ議会で成立し、10年後の1946年7月に独立することを約束させた。翌1935年には自治領となり、「フィリピン独立準備政府」が発足した。アメリカが独立を認めた理由 アメリカがフィリピンの将来の独立を認めたのは、植民地フィリピン産の安価な製品が本土にもたらされ、アメリカ国内産業を圧迫したため、世界恐慌に苦しむアメリカ産業界からフィリピンを分離してその産品に課税すべきでるという要求が出されたからであった。
フィリピン独立準備政府
1934年のフィリピン独立法(タイディングス=マクダフィ法)に伴い成立したフィリピン独立準備政府をフィリピン=コモンウェルス、または第二次フィリピン共和国といい、翌1935年、ケソンが初代大統領に選出された。この国家は約束された10年後の独立に向けた過渡的な国家とされ、法的にはアメリカの領有権下にあり、フィリピン人、フィリピン官吏はアメリカ合衆国に対して忠誠を義務づけられた。議会・行政府は存在したが、法律の制定はアメリカ大統領の承認を必要とし、直接的には高等弁務官の監督をうけなければならなかった。 → 第1次フィリピン共和国Episode フィリピンの英語
フィリピンにはタガログ語など、現地の言葉があったが、スペイン統治下ではスペイン語が公用語とされてきた。1898年、フィリピンを統治することとなったアメリカはすべての教育を英語で行わせた。小学校の教室にはワシントンの肖像がかけられた。それでも公共の場での演説はスペイン語で行われていたが、1919年に下院で初めて英語で演説する議員が現れた。マニラ市議会は22年に議会用語に英語を採用し、その後25年までには裁判や官公庁の採用試験もすべて英語で行われるようになった。この英語の強要は「アメリカの文化帝国主義」として国内でも反対する声もあった。現在もフィリピンは「英語国」であるが、教育では「二言語教育」が小学校から行われ、フィリピン語を教育用言語として国語、社会、図工、体育などを教え、英語は英語、数学、理科などで使われている。これは教育現場に大混乱をもたらしており、学力低下や不登校の原因になっているという。<鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』1997 中公新書 p.162,p.186>フィリピン(6) 日本軍の占領と軍政
1942年1月、日本軍がフィリピンに侵攻し、マニラを占領。軍政を布いた。アメリカ軍はマッカーサー以下が撤退、フィリピン独立準備政府のケソン大統領もアメリカに亡命した。1943年には親日政権が樹立され、日本軍による軍政が布かれたが、その統治は民心を離れていたため、フクバラハップという抗日組織が激しい抵抗を続けた。
バターン死の行進 日本軍はバターン半島とマニラ湾入り口のコレヒドール島に立てこもった米軍とフィリピン軍を攻撃して降服させた。この時生じた多数の捕虜を、日本軍は炎天下、60kmにわたって移動させ多数の犠牲者を出した。この「バターン死の行進」は戦後、日本軍の捕虜虐待事件として、本間雅晴司令官(中将)などがマニラ軍事裁判で有罪となり、本間中将は銃殺刑とされた。
マッカーサーの撤退
アメリカ軍の総司令官マッカーサー将軍は、有名な、I shall return. の言葉を残してオーストラリアに撤退した。また、フィリピン独立準備政府(フィリピン=コモンウェルス)のケソン大統領も42年にアメリカに亡命し、ワシントンに亡命政権を樹立した。なお亡命政府はケソンが1944年に死去したため、オスメーニャが第二代大統領となり、約束された46年の独立に備えた。親日政権の成立
日本軍は1942年1月マニラを占領すると直ちに軍政を開始した。ベニグノ=アキノ(父)など、反米活動家は日本に協力することによって独立を獲得できると考え協力した。日本の東条英機内閣は大東亜共栄圏への参加と対米戦争への参戦を条件に独立を認め、1943年に10月、ラウレルを大統領とする共和制政府が樹立された。ラウレルは11月に東京で開催された大東亜会議に出席した。対米参戦は東条首相が直接マニラに来て要請したが、フィリピン側は抵抗し、ようやく44年9月に「戦争状態が存在する」ことを認める形でアメリカに宣戦布告した。しかしその時点ではすでにアメリカ軍の反撃は太平洋上でフィリピンに近づいていた。45年8月、日本の敗戦とともに親日政権は崩壊し、ラウレルは東京に逃れ、占領軍に対米戦争協力者として逮捕された(後に許されてフィリピンに戻る)。抗日運動の展開
一方日本軍に対する抗日武装勢力はフィリピン共産党の組織した抗日人民軍(フクバラハップ、略称フク団)を中心とした抗日ゲリラ戦を展開した。マニラ市街戦と日本軍の撤退
太平洋方面で反撃に転じたアメリカ軍(連合軍)は、マッカーサー指揮の下で1945年1月にフィリピンに上陸した。日本軍は2月、マニラからの撤退を敢行するが、その際に多くのマニラ市民が殺害された。その数は10万に及んだという。日本では忘れられがちであるが、このマニラ市街戦はいまもフィリピン人の中に戦争の記憶として残されており、日本軍に対する悪感情は消えていない。太平洋戦争中、日本軍の軍政下にあったフィリピンでの戦闘では、日本軍の戦死者は約52万であるが、フィリピン人は111万人が犠牲となっている。当時の国民の16人に一人にあたる。2015年2月、マニラ市街戦から70年の追悼行事を迎えたフィリピンのロムロ元外相は「人口に比してアジアで最も大なる惨禍を受けた国」であると述べている。戦後、日本人遺族による戦没者慰霊碑がフィリピン各地に建てられたが、フィリピン人を悼む碑は多くはない。<『朝日新聞』2015/2/27 朝刊>
フィリピン(7) フィリピン共和国の独立
第二次世界大戦後の1946年7月、アメリカから独立しフィリピン共和国が成立した。
フィリピン共和国ロハスはアメリカの意を受けて共産党系武装集団フクバラハップ(フク団)掃討に全力を挙げたが、48年心臓発作で急死、次のキリノ大統領はフク団との和平を進めた。その後、国防長官マグサイサイは「アメとムチ」を使ってフクバラハップを鎮圧することに成功、人気を博して1953年に大統領に当選し、土地改革などを行った(57年まで)。
この間、中華人民共和国の成立・朝鮮戦争勃発という東西冷戦下の東アジア情勢の緊迫化に伴い、1951年にはアメリカとの間で米比相互防衛条約を締結し、アジアにおける対共産圏包囲網の一員に加わった。
次いでマカパガル大統領(57年~65年)は積極的な外国資本の導入による開発路線をとるようになったが、その結果、民族系資本は打撃を受け、インフレが進行した。
マルコス独裁政権
て1965年から大統領として開発独裁と言われる独裁政治を行ったのがマルコスであった。マルコスはイメルダ夫人とともに利権を操り、外国資本と結びついた開発を推し進め(開発独裁)、民主化を求める運動を戒厳令によって弾圧し長期政権を維持した(1965~86年)。フィリピン(8) マルコスの開発独裁
1960年代からマルコス大統領による独裁政治がおこなわれる。1983年のアキノ暗殺事件で民主化要求が高まり、86年に民衆が決起し、独裁政治が倒れる。
マルコスの開発独裁
マルコスは、1965年に就任し、69年に再選を果たし、さらに大統領の三選を禁止していた憲法を戒厳令の下で改定して、74年に新憲法の下で大統領三選を果たし、長期的な独裁政権をつづけた。マルコス政権は典型的な開発独裁政策を展開し、外国資本の導入による工業化政策を推進した。その具体的な施策として実施したのが保税加工区(後に輸出加工区と改称)の設置で、原料輸入・製品輸出を非課税にすることで外資導入をうながすものであった。独裁に対する抵抗
マルコスが開発優先で国民の支持を得ようとした背景には、国内の貧困と共に、共産党系の新人民軍による反政府活動、ミンダナオ島のイスラーム教徒であるモロ民族解放戦線による分離独立運動などから国民の目をそらす必要があったことが考えられる。しかしマルコス政権は長期化する中で次第に腐敗と強権ぶりが目立つようになり、1983年8月のマルコスの政敵ベニグノ=アキノ暗殺事件を機に批判が吹き出し、1986年の大統領選挙でのアキノ女史当選、続いて起こったピープルパワー革命で一挙に崩壊する。フィリピンのバナナと多国籍企業
(引用)今日、バナナを食べているのは日本の私たちであり、これを作っているのはフィリピン人労働者だ。だが、バナナ農園を支配する四社のうち、三社は米国資本である。これらは、バナナ植付け面積のほぼ八割を支配している。米国農業産業の比重はかくも大きい。日本の私たちは、フィリピン人の労働の成果を食べている。だが、この交換関係で最大の恩恵を受けているのは、実は、米国企業の株主たちなのである。<鶴見良行『バナナと日本人』1982 岩波新書 p.25>このようなフィリピン(特にミンダナオ島)のバナナはアメリカの多国籍企業がフィリピン政府から土地を租借するなどして開発し、1960年代から日本市場向けに急増した。日本市場では現在、台湾産などを圧倒している。多国籍企業は契約農家に融資し、技術指導などを通じて利益を吸い上げ、契約農家は現地労働者を低賃金・長時間労働で日雇いしている。その契約農家は北部から政府の後おしで移住してきたクリスチャン・フィリピーノであり、日雇いの労働者となっているのが現地のイスラーム教徒である。これがミンダナオの宗教的対立の背景になっている。このような「外からもちこまれた経済」によって、ミンダナオの自給自足的な経済が破壊され、多くの現地の人々が貧困と対立に巻き込まれた様子を、戦前の日本人によるフィリピン経営からの歴史も含めて分析したのが、鶴見良行の『バナナと日本人』である。
フィリピン(9) 現代のフィリピン共和国
1986年のピープルパワー革命でマルコス独裁政権が倒され、民主化が始まった。
フィリピンの現状 国土と民族
フィリピン共和国はルソン島、ミンダナオ島など多数の島からなる。国土は約30万平方km。人口約6400万。首都はマニラ。国語はフィリピノ語(ルソン島の現地語であるタガログ語をもとに、1987年の憲法で国語とされた)であるが、アメリカ統治時代以来の英語、さらにそれ以前のスペイン統治時代以来のスペイン語も使われている。民族はマライ=ポリネシア語族に属するフィリピン人。宗教も複雑で、北部はスペインの統治政策もあってカトリックが優勢だが、南部のミンダナオ島にはイスラーム教徒(モロと言われる)も多く、モロ民族解放戦線の反政府活動も存在している。またマニラなど都市部には中国系の華僑も多い。ピープルパワー革命
第二次世界大戦後の1946年、アメリカから独立。1965年からマルコス大統領のいわゆる開発独裁が続いたが、1983年に政敵ベニグノ=アキノ暗殺事件を機に、経済危機も相まって一気に独裁反対の声が強まった。1986年の大統領選挙でアキノ未亡人が当選すると、マルコスはその当選を無効としようとして工作したがかえって民衆の反発をうけ、1986年2月22日に市民が結集、軍やカトリック教会も反マルコスで一致したためマルコスは夫人と共にアメリカに亡命、ピープルパワー革命と言われた民主化が実現してアキノ大統領が出現した。
アキノ大統領とその後のフィリピン
アキノ大統領は民主主義の定着をはかり、1987年の憲法で任期6年の大統領の再選を禁じた。1992年にアキノ政権を継承した(引用)一人一票がものをいう選挙では、貧困層からのと区票が大きな意味をもつが、大衆の人気をとるためのバラマキ政策は汚職や腐敗の温床になりやすい。経済発展の利益が自らにも及ぶことを求める貧困層を基盤とする「利益の政治」と、清廉潔白な政治を求める中間層を基盤とする「モラル政治」とが対抗するという構造が、フィリピンにも出現した。<古田元夫『東南アジア史10講』2021 岩波新書 p.240>1998年には、貧困対策を掲げた
(引用)21世紀のフィリピン政治では、大統領選挙において候補者のパーソナリティーが有権者にとっての大きな意味をもつようになっている。与党は大統領の個人政党の様相を強く帯びるようになり、安定と変化の極に大きく揺れる状況が続いている。<古田元夫『同上書』 p.265>
女性ジャーナリスト、ノーベル平和賞受賞
2021年10月8日にノーベル平和賞が発表され、フィリピンのジャーナリスト、マリア・レッサとロシアのリベラル紙「ノーヴァヤ・ガゼータ」編集長のドミトリー・ムラトフ氏が受賞した。マリア・レッサはニュースサイト「ラップラー」を運営し、トゥテルテ大統領の強権的な手法を批判し続けていた。その表現の自由を守る行動が評価され、受賞となった。 → BBC ワールドニュース 2021/10/6NewS フィリピン大統領“ボンボン”マルコスが就任
マルコス元大統領とイメルダ夫人の間に生まれた通称「ボンボン」マルコス=ジュニア(1957年生まれ)は、イギリス・アメリカに留学したのち、1986年のピープルパワー革命で父母と一緒にハワイに亡命した。父の死(1989年)後、フィリピンに戻ることを許され、1990年代から政治活動を開始、下院議員、州知事などを務めた。2022年のフィリピン大統領選挙に出馬、有力視されたドゥテルテ大統領の娘サラを副大統領候補とすることで抱き込み、圧勝で当選、6月30日に就任した。SNSを通じてマルコス=ジュニアを支持した世代にとっては、マルコス独裁時代の記憶は既に無くなっていた、と思われる。 → BBC ワールドニュース 2022/6/30かつての独裁者マルコス家の復権として批判する声も多いが、選挙で信任を受けた新大統領は父の元大統領の業績をフィリピンを戦後の荒廃から立ち上がらせたと称賛し、独裁時代の人権抑圧には触れなかった。また前大統領の娘を副大統領としたことから、前大統領の言論弾圧が不問に付されるおそれがあるという声もある。就任と同時に、前年にノーベル平和賞を受賞しているマリア・レッサが主催するニュースサイト「ラップラー」の事業免許を取り消し、政権批判を許さない姿勢を示した。“独裁者の息子”と見られる新大統領には前大統領が強行した「麻薬撲滅戦争」をどう沈静化させるか、また中国の南シナ海への海洋進出にどう対応するか、さらにASEAN諸国の中での存在感を維持できるか、などが課題とされている。