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信仰義認説

“人は信仰によってのみ義とされる”という、ルターなど宗教改革の主要な信仰理念。

 中世キリスト教教会のあり方が、ローマ教会の教皇を頂点とした教会・聖職者の権威が強まり、形式化、儀礼化したことに対して、儀式や寄進、聖職者の華美な生活などの信仰以外の行為を虚飾を考えて、イエス時代の本来の教えに立ち返り、『聖書』のみを拠り所として純粋な信仰のみによって救済を求めるべきであるという主張が起こった。イギリスのウィクリフやチェコのフスを先駆者として、16世紀の初め、ドイツのルターが現れ、ローマ教会の贖宥状発売を批判したことをきっかけに宗教改革が始まったが、その根幹となる主張が「信仰義認説」である。ルターの拠り所となったのは、新約聖書の次の言葉であった。
(引用)神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり、信仰に至らせる。これは「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。<『新約聖書』ローマ人への手紙 第1章17>
 「義とされる」とは、正しい行い、正義、義務といった意味であるが、キリスト教では神による「救済」に価する行い、ということであろう。ルターの考えでは、本来、罪深い存在である人が救済されるかどうかは、その人の外的な行為ではなく内的な信仰によると考えた。その1520年にあらわした主著『キリスト者の自由』では次のように述べている。
(引用)身体がかの司祭や聖職者が着ているような聖衣を着たところで、それがたましいにとって何の飾りにもならないし、また教会や神聖な聖域に詣でたとしても無用であり、神聖な行事にあずかっても役に立たない。身体だけで祈願し断食し巡礼に加わり、更にまた身体をもってまた身体において行われ得るような善行をことごとく完うしたところで、すべて無益である。実にたましいに義をもたらし自由を与えることのできるものは、およそこれとは全く異なるところのものでなければならない。・・・これに反して身体が聖衣ならぬ平服を着用し、神聖ならぬ場所に住み、普通の飲食を取り、巡礼も祈祷をもなさず、上述の偽善者の行う動作を全くなさないとしても、そのことがたましいに何の障害ももたらすこともないのである。<ルター『キリスト者の自由』1955 岩波文庫 p.14-15>

ルターの信仰義認説

 ルターの信仰を一言で表現すれば「罪人にして同時に義人」であると言えるであろう。カトリックでは罪の段階から神のめぐみによって救いの段階に至ると考えられているが、ルターは自らの修道院での修業の結果、人間の努力によっては神の義には至れないという確信を持った。「信仰義認」はこの確信と同時にめざめた。義人は行いによってではなく、信仰によって生きるのである(ローマの使徒への手紙1-17)。これが「塔での回心」と言われるルターの回心の経験であり「信仰のみ」といわれる意味である。<小田垣雅也『キリスト教の歴史』1995 講談社現代新書 p.132>
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書籍案内

ルター/石原謙訳
『キリスト者の自由・聖書への序言』1955 岩波文庫

小田垣雅也
『キリスト教の歴史』
1995 講談社学術文庫