印刷 | 通常画面に戻る |

コレージュ=ド=フランス

1530年、フランスのフランソワ1世が設立した王立高等教育機関。人文主義を標榜したフランス・ルネサンスの一つの動きとなり、学問研究の場として現在まで続く

 Collège de France 1530年、フランスのヴァロワ朝フランソワ1世が王宮内に開設した古典研究のための学院で、現在も続く高等教育機関。開設は、フランス・ルネサンスの開花の一つのあらわれであり、人文学者ギョーム=ビュデがフランソワ1世に進言して開設された「王立教授団」に始まる。

王立教授団の設立

 フランソワ1世は、イタリア戦争を神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)との間で続けていたが、1529年、カンブレ条約でいったん、講和が成立した。この平和回復の時期に、フランソワ1世は1530年3月、パリに「王立教授団による高貴なる三言語学院」を設立した。三言語とはラテン語、ギリシア語、ヘブライ語のことである。ヘレニズム学のトゥーサンやパネース、ヘブライ学者のヴァターブ、数学者のキネなど、当時の最高の頭脳といわれた学者を召集した。<佐藤賢一『ヴァロワ朝』2014 講談社現代新書 p.248>
ソルボンヌとの対立 その頃、神学の殿堂といわれたソルボンヌ学寮(神学部)を初めとするパリ大学が学問の最高峰とされていたが、その学風は権威的でありすぎ、ルネサンスの人文主義からは旧弊としてみられるようになっていた。フランソワ1世が王位教授団を創設したのは、パリ大学の中世的権威に対して、人文主義者に自由な学問の場を与えようとした意図があった。またすでにドイツではルターの宗教改革が始まっており、フランスでは比較的穏やかだったが、福音主義を唱えたルフェーヴル=デタープルなどの改革者も現れていた。

コレージュ=ド=フランス

 パリ大学神学部(ソルボンヌ)は、王立教授団に対し、神学軽視であり、異教の学問であるとして強く反発し、しばしば対立した。しかし、フランス王室による保護はその後も続き、17世紀には「王立学院」、18世紀からは「コレージュ=ド=フランス」となって現在も続いている。現在は、約50ある講座の講師は教授会が選考し大統領が任命する。学位授与はないが、受講には試験がなく万人に開かれている。

人文学者ギョーム=ビュデ

 コレージュ=ド=フランスの基になった「王立教授団」設立をフランソワ1世に進言したギョーム=ビュデは、「フランスのエラスムス」ともいわれる人文学者(古典学者)でヒューマニズム(ユマニスム)の開祖の一人であった。ビュデはギリシア語を習得して聖書の原典研究をはじめたため、パリ大学神学部(ソルボンヌ)の神学者からは異端視され弾圧された。当時ちょうど隣国ドイツではルターの宗教改革が始まり、カトリック側は神経を高ぶらしていたためである。ビュデは旧教側の度重なる弾圧にもかかわらず、国王フランソワ1世に保護を求めた。フランソワ1世も当時、ハプスブルク家のカール5世と激しく対立していたので、非カトリックのビュデの意見を容れ、王室での古典学者の講義を認め、学院を創設した。学長にははじめエラスムスを招聘しようとしたがそれは実現しなかった。1530年3月ごろ、ギリシア語・ヘブライ語・数学・ラテン語の6教授からなる王立教授団が組織され、あまり目立たぬように開講されたという。また教授への俸給もわずかで、支払われなかったこともあるという。約束されていた専用の建物も、完成したのは1778年のことだった。<渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』1971 岩波文庫 p.20-54 「ある古典学者の話―ギョームービュデの場合」> 
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

渡辺一夫
『フランス・ルネサンスの人々』
1971 岩波文庫

佐藤賢一
『ヴァロワ朝』
2014 中公新書