詳説世界史 準拠ノート(最新版)
第8章 近代ヨーロッパの成立
4節 ヨーロッパ諸国の抗争と主権国家体制の形成
■ポイント 主権国家および主権国家体制とは何か。その概念を正確につかもう。
A主権国家 の形成- 16~17世紀 近世ヨーロッパ = a カトリック教会 とb 神聖ローマ帝国 の普遍的権威の動揺。
→ ヨーロッパ各国が自国の利害を求めて戦争と妥協をくりかえす → 恒常的な緊張状態が続く。 - c イタリア戦争 の長期化・大規模化がもたらしたこと。
- d 軍事革命 :e 小銃・大砲が多用されるようになり騎士主体の戦闘から歩兵の集団戦形態に変化する。
→ 騎士の役割の低下は封建領主層の没落につながるとともに軍事組織、軍事制度の変化をもたらした。 - f 常備軍 :封建的な家臣団、臨時の傭兵に依存する戦争から、平時でも維持される国民軍を主体とする戦争へ。
→ 徴兵と軍事費の調達が必要となる。 - 各国はg 徴税機構を中心とした官僚制を整備し、国内の統一的支配を強める。
- 国境で区切られたh 国土 、納税と徴兵の対象になるi 国民 、国を統治するj 主権 の三要素
をもつ段階の国家形態をA 主権国家 という。 → k 近代国家 の原型となった。
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B絶対王政- 16~18世紀 主権国家の形成期には、主権が一人の国王に付与される国家形態が現れた。
= 西ヨーロッパのa スペイン ・b フランス ・c イギリス で発達。 - 王権を支える二つの階級
- d 領主階級(貴族・聖職者) :免税などの特権を持つ中間団体。
→ 国王の国民を直接支配することはできなかった。 - e 有産市民層(ブルジョワジー) :商人・金融業者。
→ 国王は彼らに経済的独占権を与えるなど協力関係をつくる。 - 前者は没落しつつあり、後者は勃興しつつあった。両者の力が均衡したところに王権が成り立つ。
- 絶対王政のもとでの新しい生産様式
- f 問屋制 :西ヨーロッパで、中世の家内制生産に代わって登場。
= g 商人が手工業者に道具や原料を前貸しして生産させる生産方式。 - h マニュファクチャー :i 資本家が労働者を仕事場に集め、分業による手工業生産を行う生産方式。
→ 次第に資本主義的生産方式に移行していく。 - 商工業の発達によって成長した市民層は自由な経済活動と政治参加を求め、王政に批判的なる。
- 絶対王制(絶対主義)国家は国内の商工業を保護・育成するj 重商主義 の経済政策をとった。(後出)
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C主権国家体制- 主権国家のあり方:規模の大小、政体・宗教的バックボーンなどは多様であった。
- 国際社会の形成:互いの国家利益(国益)を利害を調整するためのa 外交関係 を持つ。
→ b 外交官 を交換しあい、必要があればc 国際会議 を開催。 - 主権国家を基本単位とした国際関係を、C 主権国家体制 という。
→ 16~17世紀のヨーロッパに成立したが、18~⒚世紀を通じて全世界に拡大し、現在まで続いている。 - 1648年のd ウェストファリア条約 でヨーロッパのC 主権国家体制 が確立する。(後出)
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・主権国家の権力のあり方は、18世紀後半の市民革命を経て、絶対王政から国民主権に移行していく。
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イ.イタリア戦争
■ポイント 広義のイタリア戦争と狭義のイタリア戦争を正確に捉え、主権国家の形成とのかかわりを理解する。
Aイタリア半島 の状況 北部の都市国家、中部の教皇領、南部のナポリ王国らに分裂していた。- a 神聖ローマ皇帝(ハプスブルク家) とb フランス王(ヴァロワ朝) が勢力を伸ばし対立した。
- 1494年 フランス国王ヴァロワ朝の▲c シャルル8世 がナポリ王国王位継承を主張してイタリアに侵攻。
→ a 神聖ローマ皇帝(ハプスブルク家) ・スペイン王およびローマ教皇・ヴェネツィアなどが反発。
= 広義のA イタリア戦争 始まる。95年、フランス軍撤退。その後も断続的に争い続く。
(この間、フィレンツェではマキャヴェリが活躍。 ドイツでは宗教改革始まる。) - 1519年 ハプスブルク家のスペイン王 d カルロス15世 がa 神聖ローマ皇帝 に選出され
e カール5世 となる。 → フランス国王f フランソワ1世 が強く反発。
→ 翌年、イギリス王g ヘンリ8世 と会見。
Text p.215
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Bイタリア戦争 の激化- 1521年 フランス王a フランソワ1世 がイタリア侵攻、神聖ローマ皇帝b カール5世 と戦う。
= 狭義のB イタリア戦争 始まる。1544年まで4回にわたり両者が戦う。 - ▲1525年のパヴィアの戦いではフランス王自身がカール5世軍の捕虜になる。
- 1527年 b カール5世 のイタリア侵攻 = c 「ローマの劫略」 → イタリアルネサンスの終焉
- 並行して、d オスマン帝国 軍の圧力が神聖ローマ帝国領を脅かす。
- 1529年 e スレイマン1世 がf ウィーンを包囲 。1538年 プレヴェザの海戦。(前出)
- フランスはオスマン帝国に接近。g カピチュレーション を認められる。(後出)
- ▲神聖ローマ皇帝はイギリス(チューダー朝h ヘンリ8世 )に接近。
解説
メディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世は、カール5世がミラノ、ナポリなどを抑えたことに反発し、フランス王と結んだ。それに対する懲罰としてカール5世がローマに軍隊を送り、破壊した。このことを「ローマの劫掠」という。カール5世自身はマドリードにいて、ローマには傭兵部隊を派遣、傭兵がローマを破壊した。これによって、イタリア=ルネサンスの繁栄は終わりを告げたと言われている。しかし、カール5世とローマ教皇は、当時、プロテスタントとの戦いと、オスマン帝国の侵攻という共通の敵があったので、1529年にはバルセロナで和約した。それに伴いカール5世がフィレンツェでのメディチ家の復活を認めたので、フィレンツェ共和国も崩壊し、その意味でもイタリア=ルネサンスの時代は終わったと言える。
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Fカトー=カンブレジ条約 1559年 イタリア戦争の講和成立。- フランス=アンリ2世・スペイン=フェリペ2世・イギリス=エリザベス1世の三国間で締結した。
- フランスはイタリアから撤退。ミラノ、ナポリなどをハプスブルク家が支配することが認められる。
- 戦争の背景 a ルネサンス、宗教改革、大航海時代、オスマン帝国の進出などと同時期に展開された。
- 戦争の意義 b ヨーロッパ各国はこの戦争での軍事革命を経て、それぞれ主権国家への歩みを開始した。
解説
スペインのフェリペ2世はフランスとの戦いを有利に進めようとイギリスのメアリ女王(熱心なカトリックでフェリペ2世の妃でもあった)にイギリス軍のフランス上陸を要請した。しかしイギリス軍は破れ、百年戦争以来保持していたフランス国内のイギリス領カレーを失った。そのためメアリの人気は落ち、イギリスの次の女王エリザベスは国教会に復帰した。フェリペ2世自身も、植民地アメリカからのもたらされる銀という莫大な富がありながら、イタリア戦争の長期化で財政は破産状態であった。さらにオランダの独立運動など新教徒との戦いも続いていたので、イタリア戦争の終結の必要があった。
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・18世紀半ばまで、c ハプスブルク家 とd フランス王家 の対立が、ヨーロッパ国際関係の対立軸として続く。
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ウ.スペインの全盛期
■ポイント ハプスブルク家の支配するスペインは、どのようにして大国となったか。また、なぜ急速に衰えたか。
Aハプスブルク家 の隆盛- 15世紀後半 a オーストリア 王家 のb ハプスブルク家 、婚姻関係を通じ、c ネーデルラント を獲得。
- ハプスブルク家フィリップとスペイン王女ファナの間にd カルロス が生まれる。
b カール5世
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Text p.216
Bカルロス1世 1516年 スペイン王位を継承。- 1519年 a 神聖ローマ皇帝 に選出されb カール5世 となる。
(▲南ドイツの大商人c フッガー家 の財政援助を受ける。) - d マゼラン の世界周航を援助。(前述) → フィリピン領有。
- キリスト教世界の統一維持のため、e ルター の宗教改革を弾圧。(前述)
- f ハプスブルク帝国 ともいわれる広大な領土を支配。
- g フランス王国 との対立激化。→ 1521~44 h イタリア戦争 (狭義)。
- 1529年 i オスマン帝国 スレイマン1世 j ウィーン包囲 。
- 南北アメリカ大陸から大量のk 銀 がもたらされる。→ 宮廷・戦費で浪費。
- 1556年 退位 → ハプルブルク家が二系統に分かれる。
解説
カール5世の多面的な存在であることを理解する。かれは神聖ローマ皇帝カール5世であると同時にスペイン王カルロス1世であり、ドイツ王でもあり、その他ハプスブルク家の家領としてネーデルラントや南イタリアに領地を持ち、アメリカ大陸の広大な衣植民地の支配者でもあった。またマゼランが到達することによってフィリピンもその領土に入ることとなった。それはフランス王にとっては大きな脅威であったので、両者はイタリアの支配権をめぐって争うこととなった。しかしカールにとって敵はフランソワ1世だけではなく、ドイツで始まったルターの宗教改革でのプロテスタント、東方からのオスマン帝国の脅威とも戦わなければならなかった。(もっとも、ウィーンを守っていたのは弟のフェルディナントであった。)=l スペイン=ハプスブルク家 とm オーストリア=ハプスブルク家 に分裂。
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C フェリペ2世 スペインの全盛期- a カトリック教会 を保護。ヨーロッパの新教徒弾圧を支援。イギリスのb メアリ1世 の夫となる。
c ネーデルラント の新教徒を弾圧。 → 反発した新教徒がd オランダ独立戦争 開始。(次節) - 1571年 e レパントの海戦 ローマ教皇、ヴェネツィアなどと協力して、オスマン帝国の海軍を破る。
→ プレヴェザの海戦で失っていた地中海の制海権を取り戻した。ただし、オスマン帝国の脅威はなお続く。 - 1580年 f ポルトガル の王位を兼ねる。1640年まで、同君王国となる。
→ 広大な海外植民地をもち、g 「太陽の沈まぬ国」 と言われる。
= 本国スペイン・ポルトガル 世襲領地ネーデルラント、ナポリなど 海外領土アメリカ大陸・フィリピン
旧ポルトガル領 アフリカの各地、アジアのホルムズ、ゴア、スリランカ、マラッカなど。
Text p.217
解説
神聖ローマ皇帝位は叔父のフェルディナンドが継いだので、フェリペ2世はスペイン王にとどまったが、ネーデルラントや新大陸とフィリピンの植民地を相続した。また母がポルトガル王女であったことを口実にその王継承権を主張し、軍隊を派遣して承認させたことによってポルトガルのアジア植民地を手に入れた。こうしてスペインは「太陽の沈まぬ帝国」となり、フェリペ2世はカトリック世界の保護者として君臨したが、その実体は「借金大国」であった。新大陸からの大量の銀は、イタリア戦争の戦費と外国製品の購入に充てられたので、ネーデルラントを通じてヨーロッパ全体にばらまかれ、価格革命を起こしした。しかし国内産業を育成にまわされず、スペインは財政の不足をフッガー家などからの借金に依存していた。しかも、1557年以後、くりかえし破産宣告(国庫支払い停止)に陥っている。「世界帝国」としての自己を維持できないのがスペインの実態であった。それに拍車をかけたのが、ネーデルラントの独立戦争、イギリスとの戦争であった。
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・スペインの衰退 直接的には、1581年のh オランダ の独立、 1588年 i 無敵艦隊 の敗北。
・17世紀 衰退始まる:スペインの衰退の理由
j 新大陸から得た銀は宮廷の奢侈に浪費され産業育成などに回されなかったこと。
k 本国以外の産業や植民地の資源に依存し、国内産業の基盤が作られなかったこと。
・17世紀 衰退始まる:スペインの衰退の理由
j 新大陸から得た銀は宮廷の奢侈に浪費され産業育成などに回されなかったこと。
k 本国以外の産業や植民地の資源に依存し、国内産業の基盤が作られなかったこと。
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エ.オランダの独立とイギリスの会議進出
1.オランダの独立
■ポイント スペインからの独立の過程を理解し、急成長した背景を考える。
Aネーデルラント =現在のオランダとベルギー、北フランスを含む一帯でa スペイン の領土だった。- 毛織物業など、手工業・商業が発達し、b カルヴァン派 の新教徒(ゴイセンといわれた)が多い。
- スペインのc フェリペ2世 、カトリック化政策を進め、自治権を奪おうとした。
→ ネーデルラントの新教徒の中に、独立を求める声が強まる。
解説
ネーデルラント(低地地方の意味)とは本来は現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクに北フランスを含む広い範囲を指していた。スペイン領から独立する過程で北部11州だけが独立してネーデルラント共和国と言われるようになった。11州の中心となったのがホランド州だったのでその名で呼ばれることも多く、日本ではそこからオランダという呼称が定着した。現在の正式な英語表記は、Netheelands である。
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Bオランダ独立戦争 1568年~1609年(最終的には1648年に独立承認される)- 1568年 ネーデルラント諸州のスペインに対する反乱始まる。
→ 南部10州(a フランドル地方 )はスペイン支配下にとどまる。 - 1579年 北部7州 b ユトレヒト同盟 を結成、c オラニエ公ウィレム が指導し、抵抗を続ける。
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Cネーデルラント連邦共和国 の成立。- 1581年 独立宣言。 最高指導者a オランダ総督(統領) の地位はオラニエ公の世襲とされる。
= その中心がホラント州であったので、この連邦国家は日本ではb オランダ と言われる。
Text p.218
→ スペインの国力衰える。新教国イギリスがオランダを支援。 - 1588年 スペインのc フェリペ2世 、d 無敵艦隊(アルマダ) を派遣しイギリスを攻撃。
→ e エリザベス1世 統治下のイギリス海軍に敗れる。 → スペイン、制海権を失う。
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Dオランダの独立- スペインとの戦争を続けながら、バルト海での北欧諸国との中継貿易で富を蓄積。
- 1602年 a 東インド会社 を設立。 → 東南アジアへの進出。日本とも貿易開始。
▲b 株式会社 の最初の始まり。複数の株主が出資し、出資額に応じて有限責任を負う経営形態。 - 1609年 スペインと休戦条約。独立戦争が実質的に終わり、独立を事実上認めさせる。
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Eアムステルダム の繁栄。 フランドルのa アントウェルペン にかわり国際金融の中心となる。- 17世紀前半、オランダの全盛期となる。学芸も発展。
- 1648年 三十年戦争後のb ウェストファリア条約 で国際的にも独立承認される。(後出)
- アジア・アフリカ・新大陸に進出してスペイン・ポルトガルの交易拠点を次々と奪う。
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・17世紀後半 c イギリス=オランダ戦争 に敗れ、次第に劣勢になって衰える。(10章で説明)
・衰退の理由:d 連邦制のもとで強い中央権力を持たなかったこと。
e 国内産業の成長が無く、もっぱら中継貿易に依存したこと。
・衰退の理由:d 連邦制のもとで強い中央権力を持たなかったこと。
e 国内産業の成長が無く、もっぱら中継貿易に依存したこと。
2.イギリスの隆盛
A エリザベス1世
■ポイント イギリスの海洋帝国としての発展の基礎はどこにあったか、考えよう。
Aエリザベス1世 =の時代。- a バラ戦争 の結果、封建貴族が没落し国王によるb 絶対王政 が成立する。
- 大地主=c ジェントリ(郷紳) が各地域の代表として議会に進出。
→ 地域においては彼らは▲ 治安判事 として国王に協力した。 - 1530年代 d イギリスの宗教改革 で国王は教会組織の頂点に立つ。
- 16世紀後半 e エリザベス1世 (1558~1603年)
→ 新教国としての国民意識が形成される。シェークスピアの活躍など。 - 宗教改革が議会立法で達成されるたためf 議会 の重要性強まる。
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B囲い込み=エンクロージャー (第1次)の進行。- 15世紀末以来、イギリスで、毛織物市場が拡大し、牧羊飼育の需要が高まる。
→ a 領主や地主が農民の土地を囲込み、牧羊のための牧場に変えていった。 - ▲土地を失った農民はb マニュファクチュアーのもとでの賃金労働者になり都市に流入していていった。
- ▲c トマス=モア が『ユートピア』でd” 羊が人間を食べている ”として批判した。
→ 議会はたびたび禁止令を出すが効果無く、羊毛生産はさらに増大しe 毛織物工業 が国民産業となる。 - 毛織物尭の成長 → スペインとの対立強まる → f オランダ独立戦争 を支援。
- 1560年 ▲貨幣政策 グレシャム の提議により、悪貨を良貨に改鋳して、経済の安定を図る。
解説
囲い込み運動は、資本主義の要素である賃金労働者層の出現という重要な社会的変革をもたらした動きとして重要である。第1次はモアが「羊が人間を食べている」と言ったように、地主が牧羊のために農民の公有地を囲い込んだことである。なお、第2次は17世紀後半から18世紀の産業革命期に展開され、商業的穀物生産のために農地が囲い込まれたこと。第1次は議会は禁令を出して抑制しようとしたが、第2次はむしろ議会が推奨し、国家的に行われた。
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Cイギリスの海外進出 の開始。- ▲a 私拿捕船 によって、スペインの植民地やスペイン船への海賊行為を展開。
→ ホーキンズ父子などが大西洋各地で活動。 - 1577~80年 b フランシス=ドレーク :イギリス人で最初の世界周航を達成。
- 1588年 スペインのc 無敵艦隊 を破る=d アルマダ戦争 の勝利。 → 広範な制海権を獲得。
→ 積極的な海外進出の開始 → 西インド、インドに進出。 - アメリカ新大陸に進出 ▲ローリー 、1584年に入植を試みるが失敗。
→ 女王の死後、1607年 ▲e ヴァージニア植民地 を建設。 - 1600年 f 東インド会社 設立
= 喜望峰から西、マゼラン海峡までのアジア全域での貿易独占権が認められる。
→ オランダに代わり世界貿易の覇権を獲得。 (9章1節、2節参照) - 毛織物産業の成長、海外市場の拡大 → ブルジョアジーの成長 → その一方で貧富の差の拡大。
- 1601年 ▲g 救貧法 を制定。貧民の救済を図る。
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Text p.219
・17世紀前半 絶対王政の矛盾が深まり、イギリス革命の時代へ向かう。
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オ.フランスの宗教内乱と絶対王政
A フランソワ1世
■ポイント 宗教戦争の実体と、絶対王政の成立基盤、背景などを理解する。
・14453年 a 百年戦争 の終結 → 中央集権化が進む。
Aフランソワ1世 ヴァロワ朝 王権強化につとめる。。
- フランス=ルネサンスの開花 ▲a コレージュ=ド=フランス の開設など。
- 1521年 神聖ローマ皇帝カール5世とb イタリア戦争 (狭義)を戦う。
- 16世紀なかば c カルヴァン派 の新教徒=d ユグノー の勢力増大。
→ 商工業者、新興貴族層にひろがる。
→ ヴァロワ王家、大貴族層はカトリックを信奉、対立深まる。 - 次のアンリ2世(妃がカトリーヌ=ド=メディシス)、d ユグノー を弾圧。
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Bユグノー戦争 フランスで起こったキリスト教新旧両派のa 宗教戦争 。16世紀後半、30年以上続く。- 幼帝シャルル9世の母后b カトリーヌ・ド・メディシス が摂政として権勢をにぎる。
- 1562年 摂政、新教勢力を利用しようとして信仰の自由を認めると、反発した旧教徒のギーズ公の軍隊が
新教徒を殺害。B ユグノー戦争 始まる。王家の一族ブルボン家のアンリが新教勢力の中心となる。
→ スペインは旧教徒、ドイツ・オランダ・イギリスは新教徒を支援。 - 1572年 c サンバルテルミの虐殺 旧教徒による新教徒の虐殺事件おこり、全国に広がる。
- 国家の統一を主張する声も起こる。
d ボーダン 、王権擁護と宗教的寛容を主張した。 その後も激しい内戦が続く
解説
ユグノー huguenot はフランスのカルヴァン派新教徒のこと。貴族から農民まで広がっていた。カトリーヌ=ド=メディシスはむしろユグノーを利用し、王権の安定を図ったが、危機感を持った旧教徒側が一斉に新教徒虐殺に走ったのがサンバルテルミの虐殺。このときパリだけで4千人が殺害された。この知らせを聞いてイギリスのエリザベス1世は喪に服し、スペインのフェリペ2世は初めて笑ったという。新教徒のブルボン家のアンリは難を避けて各地を転戦中、国王が暗殺されたため、王位を継承した。しかし、パリに入ることも出来なかったので、1593年、カトリックに改宗、ようやくパリに入ることが出来た。
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Cブルボン王朝 の成立。- 1589年 シャルル9世を継いだアンリ3世が暗殺され、ブルボン家のアンリが即位しa アンリ4世 となる。
→ 新教徒の国王を認めない旧教徒が反発し、内戦がさらに深刻になる。 - 1593年 a アンリ4世 、b カトリック に改宗。新旧両宗派の対立緩和に努める。
- 1598年 c ナントの勅令 を発布。
内容:d 新教徒ユグノーに信教の自由を与え、宗教戦争を終わらせ、フランス国家の統一を維持した。
→ e ユグノー の多い商工業者の活動が活発になり、商工業発展する。 = 絶対王政の基礎ができる。 - 教皇権に対してはフランス教会の独自性を主張するようになる=▲f ガリカニスム 。
- カナダへの進出開始など、絶対王政の強化に努めるも、1610年、狂信的なカトリック信者に暗殺される。
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Text p.220
Dルイ13世 フランス絶対王政が形成される。- 1610年即位 宰相a リシュリュー 貴族とユグノーのいずれも抑えて王権の強化、財政の安定に務める。
- 1614年 b 三部会 を招集。貴族やユグノー勢力を抑えるために国王が身分別代表を召集。
= 第一身分=僧侶・第二身分=貴族・第三身分=都市代表 からなるc 身分制議会 。
→ 諸身分の対立で翌年解散。 以後、d 1789年 まで開かれず。 - 1618~48年 ドイツのe 三十年戦争 に介入。
→ ハプスブルク家の皇帝権力の衰退をねらい、新教徒勢力を支援。
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Eルイ14世 1643年 5歳で即位、- 宰相a マザラン が実権を握り 王権強化を図る。貴族勢力の制限を謀る。
- 1648年 b フロンドの乱 貴族の牙城である高等法院が反乱を起こす。a マザラン が鎮圧。
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・1661年 親政開始 17世紀後半 ブルボン朝絶対王政の全盛期となる。(後出)
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カ.17世紀の危機と三十年戦争
■ポイント 三十年戦争の実態を知り、戦争の原因・経過を抑え、もたらした結果と影響を理解する。
A17世紀の危機 背景:16世紀の経済成長がとまり、凶作、不況、a 人口の停滞 などおこる。- ドイツの b 三十年戦争 (宗教戦争)
- フランスのc フロンドの乱 (貴族の反乱)
- イギリスのd ピューリタン革命 (王政を倒し一時共和政を実現)
- ロシアの e ステンカ=ラージンの反乱 (農民反乱)、
- 社会不安を反映して、このころヨーロッパでf 魔女狩り が猛威をふるった。
解説
16世紀の宗教改革後のキリスト教新旧両派の争いは17世紀にも継続し、カトリック側で新教弾圧の手段のひとつとして異端審問が強化され、多くの批判者が反教会ということで魔女に仕立てられ焼き殺された。旧教徒による魔女狩りだけでなく、新教側でも、特にカルヴァン派など厳格な信仰を要求する教団では、反対者が魔女として処刑されることも多かった。
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B三十年戦争 の始まり。- 17世紀ドイツ 大小のa 領邦 が分立、新旧両宗派の対立もあり統一がとれない。
→ ▲カトリック諸侯連盟(リガ)、プロテスタント諸侯同盟(ウニオン)を結成。 - 1618年 オーストリアの属領のb ベーメン(ボヘミア) (現在のチェコ)で反乱が起こる。
Text p.221
c ハプスブルク家 (神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がカトリック信仰を強要。
→ 新教諸侯が反発して反乱を起こし、新旧両派の内戦へと発展した。
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C ヨーロッパ各国の介入- 1625年 a デンマーク 王が新教徒を支援して介入、国際的な戦争となる。
→ 皇帝軍の傭兵隊長b ヴァレンシュタイン が活躍し、29年、旧教側が勝利する。
c スペイン は旧教徒・皇帝側を支援して出兵。 - 1630年 d スウェーデン 国王のe グスタフ=アドルフ王 が新教徒側に参戦。
→ 1632年 リュッツェンの戦い b ヴァレンシュタイン と戦い勝利するも、戦死する。 - 1635年 f フランス(ブルボン朝) 、新教徒を支援して参戦。
旧教国フランスが新教徒を支援した理由=g ハプスブルク家と対抗するため
解説
三十年戦争の大まかな経緯は次のようであった。
- 1618~23年 ベーメンの新教徒の反乱。神聖ローマ皇帝フェルディナンド2世によって鎮圧される。
- 1625~29年 デンマーク王クリスチャン4世が新教徒支援のため侵攻。皇帝の旧教徒側はワレンシュタイン指揮の傭兵の活躍で新教徒軍を破る。
- 1630~35年 スウェーデン王グスタフ=アドルフが新教徒側に参戦。1631年、ワレンシュタインとのリッツェンの戦いで勝ったが、彼自身は戦死。ワレンシュタインも暗殺される。
- 1635~48年 フランス(国王ルイ13世、宰相リシュリュー)が新教徒側に参戦。スペインは旧教徒支援のため出兵。1643年、ラクロワの戦い、決着付かず。1644年から交渉に入り、48年に講和成立。
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D 戦争の長期化画家カロが描いた三十年戦争の一こま。強盗たちが吊し首にされている。
- 三十年戦争のまとめ
a ドイツ内部の宗教戦争がハプスブルク帝国とフランス王国の国際的な戦争に変質した。 - ▲1625年 オランダのb グロティウス が『戦争と平和の法』を発表。
→ 自然法思想に基づき、主権国家間が戦時で守るべき国際法規の確立を主張した。国際法の理念の始まり。
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Eウェストファリア条約 締結。- 1644~48年までa ウェストファリア で講和会議が開催される。
- 1648年、E ウェストファリア条約 締結される。その主な内容は
- b アウクスブルク和議 (1555年)が再確認され、ルター派と共にカルヴァン派も公認される。
- フランスはc アルザス とメッツ、ヴェルダンなどを獲得。 → 国土を東方に拡大。
- d スウェーデン は北ドイツ沿岸の西ポンメルン、ブレーメンなどを獲得。
- e ブランデンブルク=プロイセン は東ポンメルンに領土獲得。
- f スイス とg オランダ(ネーデルラント) の独立が正式に認められる。
- 意義 h 近代世界最初の国際条約として重要であり、主権国家体制を確立させた。
Text p.222
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F 戦争後の状況- a ドイツの分裂の固定化と停滞
- 約300にのぼるb 領邦 の独立性が強化される。(立法権、外交権を認められる。)
→ そのためこの条約は、c 神聖ローマ帝国の死亡診断書 と言われる。 - 30年にわたりる戦闘でドイツ国内は荒廃、人口1600万が600万に減少し停滞する。
→ d ドイツの統一(主権国家の形成)は19世紀中頃まで遅れる。 - オーストリア=ハプスブルク家の衰退 e アルザス をフランスに奪われ領土はオーストリアのみとなる。
- f スウェーデン の大国化
北ドイツ沿岸に領土を獲得し、バルト海を内海とする「g バルト帝国 」を形成した。 → ロシアとの対立。
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・17世紀後半 ヨーロッパ国際政治の焦点は、フランスのルイ14世の積極的な領土拡張戦争に移行する。
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キ.東ヨーロッパの新しい動き
■ポイント プロイセンとロシアは、ヨーロッパの辺境にあって、どのように主権国家を形成させたか。
1.プロイセンの台頭
Aドイツ人の東方植民- 12世紀以来、エルベ川以東のスラブ人居住地区にドイツ人が入植。
- 1134年 a ブランデンブルク選帝侯国 辺境伯領として成立。
→ 15世紀 b ホーエンツォレルン家 がブランデンブルク選帝侯となる。 - 13世紀 c ドイツ騎士団領 十字軍失敗後、東方植民を行い、バルト海沿岸を占有
→ 1525年 ポーランド王国を宗主国としてd プロイセン公国 となる。
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Bユンカー の成長。- 東方植民の過程で、入植促進のために農民に有利な地位が与えられた。
→ 15~16世紀 B ユンカー と呼ばれる領主層に成長し、農民支配を強化。 - 16世紀 西ヨーロッパの商業革命 → 東ヨーロッパではa グーツヘルシャフト 経営が成立。(8章1節)
→ 西ヨーロッパへの穀物輸出のため、領主による農奴支配が強化される(b 再版農奴制 )。 - B ユンカー とは、c 土地貴族とも言われ、農民を封建的に支配し、地方の行政も行い国王を支えていた。
解説
ユンカー junker は土地貴族を言うが、ドイツに特有の存在で、東方植民以来エルベ以東で成立した、農奴を使役する直営農場(グーツヘル)を経営する層のこと。官僚や軍人と成りプロイセンの絶対王政を支えていた。ナポレオン戦争に敗れた後、上からの近代化が図られた際に、農奴は解放されたが、ユンカーは生き残り、資本主義的農場経営者に転換して⒚世紀のビスマルク時代の軍国主義を支え、さらにナチス=ドイツの支持基盤ともなった。
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Cブランデンブルク=プロイセン の成立。- 1618年 a ブランデンブルク選帝侯国 とb プロイセン公国 が同君連合となる。
→ 三十年戦争後、ウェストファリア条約で東ポンメルンを獲得。= 現在のポーランド北部のバルト海沿岸。 - 北ドイツで急速に成長し、強国となる。▲1660年 ポーランドの宗主権から独立する。
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Dプロイセン王国 首都 ベルリン 。- 1701年 スペイン継承戦争で神聖ローマ帝国皇帝側について戦い、王国に昇格。(後出)
- 18世紀 ホーエンツォレルン家のもとで君主権が強化され、ドイツ諸国の中で最有力となっていく。
A イワン雷帝
2.ロシアの再興
Aイヴァン4世(雷帝) モスクワ大公- 16世紀 a ツァーリ を称し、貴族を抑えて専制政治の基礎をかためる。
→ 貴族を次々と処刑したので、b 雷帝 と言われて恐れられた。 - 領土拡張
- 南ロシア ▲ヴォルガ川流域の カザン=ハン国 ( タタール人 の国家)・
さらにアストラハン=ハン国 を征服。
→ イスラーム教徒を支配下に入れる(現在の南ロシア)。 - c コサック の首長d イェルマーク がe シベリア に遠征。
シビル=ハン国 を征服。 → ロシアが領土に組み込む。
→ 毛皮交易を進め、太平洋岸への進出始まる。 - c コサック とは、ロシア東南部の草原地帯で牧畜・狩猟・農業を営み、戦士団を形成していた。
- 1584年の死後、内紛で混乱。▲ ボリス=ゴドゥノ フ の政権簒奪などがおこる。
解説
ツァーリはロシア皇帝の公式名称で、15世紀後半のモスクワ大公国のイヴァン3世の時に初めて使用されたが、定着したのはイヴァン4世(雷帝)の1547年からである。この称号はローマの「カエサル」がロシア語に転化したもので、ロシア帝国がローマ帝国・ビザンツ帝国を継承しているという意味をこめていた。ロシアで独特な強大化を遂げた皇帝専制体制のことをツァーリズムという。
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Bロマノフ朝 成立。- 1613年 a ミハエル=ロマノフ が混乱を収束し、新たな王朝を開く。
→ ツァーリズム(専制支配)を継承し、b 農奴制 を強化 - 1670年~71年 c ステンカ=ラージン の農民戦争を鎮圧。(後出)
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・17世紀末~18世紀 ピョートル大帝の時代に、強大になる。(後出)