ヴァレンヌ逃亡事件
1791年、フランス国王夫妻が国外逃亡を図って捕らえられた事件。ルイ16世は権威を喪失し王権を失うことになる。
フランス革命の課程で、1791年6月20日から翌日にかけて起こった国王ルイ16世らの権威を失墜させた事件。国王一家は1789年9月の市民によるヴェルサイユ行進によって、ヴェルサイユからパリのテュイルリー宮殿に移されていた。幽閉という状態ではなかったが、革命の進展に不安を抱いた国王夫妻は密かに国外脱出を策した。1791年6月、フランス部隊の若いスウェーデン人大佐アクセル=ド=フェルセン(噂ではマリー=アントワネットの恋人)が周到に準備し、20日深夜(正確には21日0時10分)国王ルイ16世は従僕に変装し、王妃・王の妹と共にテュイルリー宮殿を脱出、馬車で東に向かった。騎兵隊が途中ヴァレンヌで出迎えて護衛する予定だったが農民に脅されて退却してしまった。一行は途中の宿駅長に見破られ、21日深夜捕らえられた。
国王の権威の失墜
国王でありながら国を離れようとしたルイ16世に対し、6月25日、国民議会は王権の停止を布告。同日6時、国王一家パリに連れ戻され、テュイルリー宮殿で半ば幽閉された状態となる。ルイ16世は国王であることには変わりはなかったが、この事件をきっかけにその権威を失墜し、議会と市民の中に王政廃止、共和政実現の声が強くなった。それに対してジャコバン=クラブ内の右派であるバルナーヴらは、王制を廃止するのではなく、憲法の下で国王を戴くという立憲君主政を構想し、ジャコバン=クラブから分離してフイヤン派を結成した。ルイ16世がその構想を受け容れていれば、後の処刑は免れたかも知れないが、国王(及び王妃)はこの逃亡事件に懲りずに、その後もオーストリアなど外国と密かに連絡を取り、立憲君主政さえ受容しない姿勢を取った。その結果が国王と王妃の処刑ということになる。Episode 国王がいなくても太陽が昇る!
(引用)6月25日、パリの民衆は怒りの沈黙のうちに王の帰還を迎えた。民衆の多くは、王の逃亡をはじめて聞かされたとき、王がいなくても朝の太陽がのぼったと言って驚いたほど素朴であった。しかしこの素朴な信頼が、ただちにはげしい怒りにかわることもさけられなかった。その種子をまいたのは、王自身であった。<河野健二『フランス革命小史』1959 岩波新書 p.106>