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ルイ16世

フランスのブルボン朝国王。フランス革命が起こったときの国王で、その対応を誤り退位させられ、1793年に処刑された。

 フランス・ブルボン朝の国王(在位1774~92年)。フランス革命の渦中の1793年に処刑された。即位当時フランスはブルボン朝絶対王政最盛期のルイ14世からルイ15世(16世の祖父)と続いた17世紀末から18世紀のヨーロッパでの領土拡張戦争、新大陸やインドでのイギリスとの英仏植民地戦争などで深刻な財政難に見舞われていた。

テュルゴーの財政改革、失敗

 ルイ16世は、20歳で即位すると、テュルゴーなど有能な人物を採用してその財政再建に当たらせた。彼自身はもっぱら狩猟や宮中の舞踏会に興じて政治を省みなかったとも言われているが、最近の評価では、革命の勃発を未然に防止し、啓蒙専制君主の道を模索したが失敗した、ともされている。1770年に結婚した、オーストリアのマリア=テレジアの王女マリ=アントワネットも贅沢な生活を送り、そのため財政が苦しくなって革命の一因となったとまで言われることがある。しかし、国王の失政と王妃の贅沢だけで革命が起こったと言うことではないことは言うまでもない。
 財務長官テュルゴーは、ケネーなどの重農主義に基づいて穀物流通の自由化、同業組合の廃止などを行い、財政収支のバランスをとるために王室の支出の削減、地租制度の改革などを進めたが、貴族や特権商人たちが強く抵抗したため、ルイ16世は1776年に彼を罷免し、財政改革は頓挫した。
 絶対王政を行き詰まらせた財政難はイギリスとの植民地戦争の時代から始まっており、さらにこの時期にアメリカ独立革命が起きると、1778年にフランスは参戦に踏み切ってアメリカを支持しイギリスと戦ったことも、財政問題を深刻にした理由である。

フランス革命の勃発

ルイ16世
タンプル塔へ下着のまま連行されるルイ16世
芝生瑞和編『図説フランス革命』河出書房新社 p.103
 1789年5月、財政難を解決するため貴族に対する新たな課税を企て、三部会を召集したところ、第三身分が一部の貴族と協力して国民議会の開催を宣言した。国王はそれを認めず武力弾圧しようとしたところから、パリ市民が蜂起してフランス革命が勃発した。10月にはパリの女性がヴェルサイユ行進を行って、国王一家はパリに連れ戻され、テュイルリー宮殿に入った。
 しかし、1791年6月21日、ルイ16世はマリ=アントワネットと国外逃亡を企て(ヴァレンヌ逃亡事件)て失敗し、全く国民の信頼を失って王権は停止された。その後フィヤン派のバルナーヴやラ=ファイエットは国王の存在の上で議会制を敷く立憲君主政の樹立をめざして、1791年の憲法を制定した。ルイ16世はそれを容認しながら、王妃マリ=アントワネットを通じてなおもオーストリアなどの外敵と共謀して革命の転覆を狙った。立法議会ジロンド派が主張して対オーストリア開戦が可決されると、ルイ16世はその戦争でフランスが負けることを期待して開戦を承認した。

退位

 外国の革命干渉軍の脅威が迫るなか、パリのサンキュロットが決起してテュイルリー宮殿を襲撃するという1792年8月10日事件によって、ルイ16世とその家族はタンプル塔に幽閉されることとなった。革命がさらに進展し、男子普通選挙で選出された国民公会は、1792年9月21日王政の廃止を決議、ルイ16世が退位し翌22日から「フランス共和国第1年」と称することになった。ブルボン王朝はここで一旦、中断されることとなり、1814年に復古王政となる。

ルイ16世の処刑

フランス革命の国民公会で決議され、1793年1月に執行された。

 1792年12月11日から始まった国民公会の法廷での前国王ルイ=カペー(ルイ16世は退位後はこう呼ばれた)裁判は、ジロンド派と山岳派の間ではげしく議論された。ジロンド派は処刑による外国の感情悪化を恐れ、まだ外交上の手札とできると考えて処刑に反対した。それに対して山岳派は、共和政・人民主権の立場から国王処刑を主張した。弱冠25歳の山岳派サン=ジュストは「人は罪なきものとして王たりえない」つまり、王であること自体が悪であると主張し、「この男は、王として統治すべきか、それとも死なねばならない。」と断じた。ロベスピエールはルイは裁判の対象にさえならない、共和政の樹立されたことは王の存在は許されないとして「祖国は生存すべきものだから、ルイは死すべきである。」と述べた。

Episode 宮殿の秘密の戸棚

 国民公会で前国王ルイ=カペー裁判をが開始される前の1792年11月20日、テュイルリー宮殿のなかの秘密の戸棚が発見され、国王と外敵との通謀を示す動かせない証拠が出てきた。これは秘密の戸棚をつくった錠前師ガマンが、王妃マリ=アントワネットからブドウ酒とビスケットをもてなされたところ、それを食べて猛烈な腹痛におそわれたことの結果である。彼はてっきり毒殺の陰謀にかけられたと思いこみ、約1年たって内務大臣ロランに通報したのである。<河野健二『フランス革命小史』1965 岩波新書 p.135-136>

国王裁判の評決

1793年1月14日、各議員が登壇して意見を述べるという形式で最終決定が行われた。ルイの有罪は全員一致で認められ、人民への上訴は否決された。16日夜、その刑罰を決める投票が始まり、24時間続いた。721人の議員のうち、死刑賛成387、反対334となった。賛成者の中の26名は、執行猶予について検討すべきと言う条件を付けた。この26票を反対側に数えると、361対360の1票差となる。そこで執行猶予についての投票が18日に行われた結果、380対310で否決され、死刑は確定した。

死刑の執行

 1793年1月21日、前国王ルイ=カペー(ルイ16世)はギロチンにかけられた。その前夜死刑に賛成したルペルチエが暗殺され、ロベスピエールはこの日の午後の国民公会でルペルチエの賞賛演説を行った。28日、ヴェストファーレンにいた王弟プロヴァンス伯(後のルイ18世)は摂政を名乗り、ルイ16世の王子(パリに幽閉されている)を国王ルイ17世とすると宣言した。王妃マリ=アントワネットは、同年10月、やはり断頭台に送られて死んだ。
 イギリスの首相ピットは革命が広がることを危惧し、ルイ16世処刑を口実に対仏大同盟(第1回)を各国に呼びかけた。