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革命裁判所

フランス革命のジャコバン派独裁政権下で設けられた、反革命容疑者を裁く裁判所。

 フランス革命の進展するなか、国民公会は革命の防衛と共和政の確立のための執行機関をつくった。その一つが、1793年3月10日に創設された革命裁判所であった。これは国家の内外の安全に害を及ぼす者、「一にして不可分な共和国」以外の政体を復興しようとする者たちを裁くという使命を持ち、検察官は告発された被疑者を逮捕し、裁判にかける権限をあたえられ、判決は最終的なもので不服の申し立てはできなかった。

反革命容疑者逮捕令

 さらに1793年9月17日、国民公会は反革命容疑者逮捕令を定め、容疑者とはその行動、談話または書いたものが「専制政治あるいは連邦主義の信奉者、自由の敵」と判明した者や、合法の生活手段を証明できない者、亡命貴族の親族で革命への愛を表明しなかった者など、非常に幅広い定義がなされ、多くの者が監獄に送られた。被疑者とされた者の中には、著名な国王一族や王党派、貴族、立憲君主主義者、さらにジロンド派や連邦主義を主張した政治家などの活動家もいたが、多くは徴税請負人だった者や亡命貴族の親族など無名の者であった。特に亡命貴族の財産にからむ経済問題で訴えられたケースが多かった。革命裁判所の審理が経済問題が多かった理由は次のようなことである。

経済問題が多かった理由

(引用)恐怖政治の到来を示すこの《容疑者逮捕令》は、主として、反革命的行動と、体制の不安定をねらう計画的策謀とを、すみやかに阻止しようという目的で設けられたもののように思われる。体制の不安定をねらうというものはもっぱら経済面でのことで、というのは、革命の敵対者たちはいちはやく、政府に立ち向かうには武力よりむしろ、経済的、財政的な手段によることのほうが良策だと、判断していたからなのである。・・・実際、1789年以来、通貨はもっぱら国有財産によって保証されていた――旧王領、聖職者の財産、亡命貴族あるいは受刑者たちから没収した財産、といった国有財産である。ところでそれらの財産の売却代金の収納は、遅れるうえになかなかむずかしかった。買主たちは、そしてなかんずく投機師たちは、できるだけ長期の分割払いというかたちで支払いを延ばした。アッシニア紙幣の急速な価値の下落を見越していたのである。1791年に没収された不動産の多くが、1795年には実際価格の半分以下で売られたほどだったのである!・・・1791年以来、反革命派の人間たちは、このような経済的、財政的状況をしきりに悪化させようと動いていた。彼らはみずから、あるいは彼らの財産管理人たちを通じて、国民憲法議会の後手後手の立法措置の先を越そうとしていた。・・・従って容疑者たちが逮捕され、またほとんどの場合彼らの周辺の者たちから告発されたのは、これはしばしば、不法なあるいは不正な経済的行為の当事者ないしは共犯者としてであった。・・・<オリヴィエ・ブラン/小宮正弘訳『一五〇通の最後の手紙―フランス革命の断頭台から』1984 朝日選書 p.5-6>

弁護人、証人無しの裁判

 革命裁判所の法廷はラ=コンシェルジュリー監獄に続く、《自由》とか《平等》とよばれる部屋で開かれた。94年6月10日からは容疑者の増加に対応し、裁判は予審、弁護人、証人無しで、検察官が告発し、陪審員が審議し、裁判官が判決を下した。パリ革命裁判所は、創設された93年3月から74年1月の間は、召喚されて出頭した1046名のうち、死刑を言い渡されたのは381名である。ところが94年6月8日から7月30日まで約2ヶ月では1370人の死刑判決が出されている。処刑は革命広場(現在のコンコルド広場)に置かれた断頭台のギロチンで行われた。<オリヴィエ・ブラン/小宮正弘訳『一五〇通の最後の手紙―フランス革命の断頭台から』1984 朝日選書 p.107-108 などによる>
 オリヴィエ・ブラン著の『150通の最後の手紙―フランス革命の断頭台から』小宮正弘訳・朝日選書には、恐怖政治時代の監獄と裁判の実態とともに、“マリーアントワネットから科学者ラヴォワジェ”まで、断頭台に送られた有名無名の人々の最後の手紙が収録されており、すさまじい革命の一端を見ることができる。