恐怖政治
フランス革命中の1793年6月から94年7月、ジャコバン派独裁政権が反革命派を厳しく弾圧したこと。
フランス革命は1792年の8月10日事件を機に国民公会が成立し、王政廃止を宣言、立憲王政から共和政(第一共和政)に移行した。共和政を確立するために国民公会は、翌1793年の3月から4月にかけて革命の執行機関を整備し、外交・行政の全権を握る公安委員会、反革命を取り締まる保安委員会、反革命の容疑者を裁く革命裁判所などを設置した。6月には、サンキュロットが蜂起して議会からジロンド派を追放、ジャコバン派独裁政権が成立した。
オリヴィエ・ブラン著の『150通の最後の手紙―フランス革命の断頭台から』小宮正弘訳・朝日選書には、恐怖政治時代の監獄と裁判の実態とともに、“マリーアントワネットから科学者ラヴォワジェ”まで、断頭台に送られた有名無名の人々の最後の手紙が収録されており、すさまじい革命の一端を見ることができる。また、セレスタン・ギタールという年老いたパリ市民が残した1791年から96年までの日記が『フランス革命下の一市民の日記』河盛好蔵監訳・中公文庫で公刊されているが、それをみると93年6月~94年7月まで、連日にように処刑が行われ、市民も見物に出かけている様子が窺える。<セレスタン・ギタール著/レーモン・オベール編/河盛好蔵監訳『フランス革命下の一市民の日記』1986 中公文庫>
恐怖政治の終わり
そのころ、フランス革命の情勢は、国内にはヴァンデーの反乱に代表される農民の反乱があり、対外的には対仏大同盟(第1回)が結成され、内外ともに危機にあった。ロベスピエールらジャコバン派は、公安委員会に内政と戦争などの権限を集中させ、また反革命運動を取り締まるために保安委員会と革命裁判所を設けて革命の危機を乗り越えようとした。93年9月17日、国民公会は反革命容疑者逮捕令を定め、共和国の公民としての義務を履行しない者などの逮捕を合法化し、革命裁判所では予審、弁護人、証人無しでの裁判が認められ、10月10日、「平和到来までは革命政府である」と宣言し、革命の成就を最優先として、反革命勢力の根絶に踏み切った。こうして、10月中にマリ=アントワネット、フィリップ平等公、バイイ、バルナーヴらが次々とギロチン(断頭台)にかけられ、多数のジロンド派がそれに続いて処刑された。またヴァンデーの反乱も年末までに鎮圧され、王党派の反乱に加わったとして多数の農民(女性や子供も含めて)が処刑された。恐怖政治の終わり
革命のとどまることのない進行に、ジャコバン派内部でも不安と反発が生まれた。1794年にはいると、ロベスピエールは左派のエベール、右派のダントンをも革命路線から外れたとしてギロチンに送り、4月には独裁体制を強め、恐怖政治は頂点に達した。ロベスピエール派として残ったのはサン=ジュストとクートンら少数となり、それまでジャコバン派を支えていたパリ市民のサンキュロットも次第に離反していった。こうして国民公会の多数が反ロベスピエールに姿勢を変え、7月27日のテルミドールのクーデタでロベスピエール派が失脚し、恐怖政治は終わりを告げた。オリヴィエ・ブラン著の『150通の最後の手紙―フランス革命の断頭台から』小宮正弘訳・朝日選書には、恐怖政治時代の監獄と裁判の実態とともに、“マリーアントワネットから科学者ラヴォワジェ”まで、断頭台に送られた有名無名の人々の最後の手紙が収録されており、すさまじい革命の一端を見ることができる。また、セレスタン・ギタールという年老いたパリ市民が残した1791年から96年までの日記が『フランス革命下の一市民の日記』河盛好蔵監訳・中公文庫で公刊されているが、それをみると93年6月~94年7月まで、連日にように処刑が行われ、市民も見物に出かけている様子が窺える。<セレスタン・ギタール著/レーモン・オベール編/河盛好蔵監訳『フランス革命下の一市民の日記』1986 中公文庫>