統領政府/執政政府
1799年12月、ナポレオンのクーデタで成立した政府。執政政府とも訳す。憲法では3人の統領がおかれていたが、実質的には第一統領ナポレオンに権力が集中していた。そのもとで宗教協約、アミアンの和約、ナポレオン法典の制定など国民国家の統合が図られた。1804年、ナポレオン1世が即位し第一帝政となるまで続いた。
ブリュメール18日のクーデタによって成立した政体。正式には1799年12月24日に布告された共和暦8年の憲法によって定められた。憲法では三人の統領を置く。任期は第一・第二統領は10年、第三統領は5年。第一統領となったナポレオンは行政権を持ち宣戦講和権、陸海軍統帥権を持つ。第二・第三統領は諮問機関に近い。統領はまた法律と予算の発議権を持つ。立法機関は元老院・立法院・参議院・護民院の4つに分割された。選挙は普通選挙の形式を残したが、間接的なものであった。人民投票をへなければならないという規定であったので、12月24日に実施され、結果は賛成300万、反対1500。ほぼ満票で承認された。これはナポレオンの軍事独裁の第1歩となった。
不安定な国内情勢に対して、第一統領としてのナポレオンの取った最大の対策が、対外戦争での勝利をによって権威を回復することであった。そのために計画されたのが、第二回イタリア遠征であった。それは北イタリアでオーストリアの攻勢が強まったことを口実にして行われ、大軍を率いて1800年5月8日、パリを出発し、アルプスのサン=ベルナール峠を越えて北イタリアに入り、オーストリア軍を奇襲、その勢いで6月14日にはマレンゴの戦いで大勝した。この「アルプス越え」による勝利はナポレオンの軍事指導者としての名声を不動のものとする効果を生み、「余の辞書に不可能という文字はない」といったなどの伝説が生まれた。
軍事政権としての成功を背景にに、第一統領ナポレオンは、1801年、ローマ教皇との和解であるコンコルダートを締結し、外交面では1802年にイギリスとの和平であるアミアンの和約を成立させた。その一方で、フランスの国民国家としての統合に不可欠な近代的な財政・金融体制の確立のためにフランス銀行を設立し、フランス革命の成果をブルジョワ社会に定着させるためのナポレオン法典(フランス民法典)を制定するなどを立て続けに行い、権力を不動のものとしていった。これらの積極策を打ち出した後に、1804年にナポレオンは皇帝となって第一帝政を開始するが、その前にこれらの事績を積んでいたことが重要である。
実質は第一統領ナポレオンの独裁
統領政府(執政政府)の統治に対しては、なおもブルボン朝の王政復活を策する王党派と、独裁的権力集中に反対する急進共和派との双方から、反対の運動が続いており、ナポレオンに対するテロ事件なども起こった。ナポレオンはそれらの反ナポレオンの動きを、亡命したブルボン家の一族がイギリスなど外国と結んでおこした策謀であると捉えて警戒し、厳しく弾圧した。不安定な国内情勢に対して、第一統領としてのナポレオンの取った最大の対策が、対外戦争での勝利をによって権威を回復することであった。そのために計画されたのが、第二回イタリア遠征であった。それは北イタリアでオーストリアの攻勢が強まったことを口実にして行われ、大軍を率いて1800年5月8日、パリを出発し、アルプスのサン=ベルナール峠を越えて北イタリアに入り、オーストリア軍を奇襲、その勢いで6月14日にはマレンゴの戦いで大勝した。この「アルプス越え」による勝利はナポレオンの軍事指導者としての名声を不動のものとする効果を生み、「余の辞書に不可能という文字はない」といったなどの伝説が生まれた。
軍事政権としての成功を背景にに、第一統領ナポレオンは、1801年、ローマ教皇との和解であるコンコルダートを締結し、外交面では1802年にイギリスとの和平であるアミアンの和約を成立させた。その一方で、フランスの国民国家としての統合に不可欠な近代的な財政・金融体制の確立のためにフランス銀行を設立し、フランス革命の成果をブルジョワ社会に定着させるためのナポレオン法典(フランス民法典)を制定するなどを立て続けに行い、権力を不動のものとしていった。これらの積極策を打ち出した後に、1804年にナポレオンは皇帝となって第一帝政を開始するが、その前にこれらの事績を積んでいたことが重要である。
注意 総裁・統領(執政)・総統などの区別
この「統領」は Consulat の訳語であるが、執政 の訳語が宛てられることもある。世界史上では、他にも似たような用語、総裁、総統などがあるので整理しておこう。- 総裁 フランス革命の過程で成立したロベスピエールのジャコバン派政権が1794年7月のテルミドールのクーデタで倒され、代わって成立し5人の総裁 Directoire からなる集団指導体制である総裁政府が成立した。
- 統領(執政) 1799年、ナポレオンブによるリュメール18日のクーデタによって3人の統領からなる統領政府が成立。統領 Consulat は「執政」とも訳される。古代ローマのコンスル Consul を執政官に倣っている。日本では1957年初刊の井上幸治『ナポレオン』岩波新書では「執政」とされていた<p.69~>が、最近の教科書や2018年刊行の杉本淑彦『ナポレオン』岩波新書では「統領」<p.133~>とされており、こちらが一般的になっている。
- 総統 総裁・統領に似ているものに総統があるが、これはヒトラーが就任したフューラー führer の訳語として使われている。これは国家元首と首相をかねる全権力を有していることを示す独自の用語だった。
- 大総統・大統領 また近代中国では孫文が臨時大総統に就き、袁世凱は正式な大総統に就任しているが、こちらは共和政での国家元首 President にあたる。一般的にはアメリカ合衆国に始まる大統領の語が宛てられている。
第一統領
1799年、クーデタで権力を握ったナポレオンが就任した統領政府での地位。事実上の独裁権力が付与された。ナポレオンは1802年に終身統領となった後、1804年に国民投票を実施して皇帝ナポレオン1世として即位、統領政府は終わってフランスは第一帝政へと移行した。
ブリュメール18日のクーデタの後、1799年12月に制定された共和暦8年の憲法によって設けられた、統領政府の三統領で最上に置かれた地位。第一統領は行政全般の最終決定権、宣戦及び講和の権限、陸海軍の統帥権などを持つ最高官職で、任期が10年と定められ、事実上の独裁政治を可能にする権力が付与された。ナポレオンはみずから第一統領に就任した。
なお、統領はコンシュラ(Consulat)の訳語であるが、この言葉は古代ローマ共和政の執政官(コンスル)に由来している。そこで統領政府を執政政府と言うこともある。
ナポレオンは1802年に終身統領となった後、1804年に国民投票を実施して皇帝ナポレオン1世として即位した。これによって一応は共和政的な要素を持っていた統領政府は終わりを告げ、世襲の王を戴く中世的専制国家に戻ったが、ナポレオンは国王では無く、皇帝を称したので、フランスは帝国となった。これが第一帝政(1804~1814,15)へと移行した。
なお、統領はコンシュラ(Consulat)の訳語であるが、この言葉は古代ローマ共和政の執政官(コンスル)に由来している。そこで統領政府を執政政府と言うこともある。
ナポレオンは1802年に終身統領となった後、1804年に国民投票を実施して皇帝ナポレオン1世として即位した。これによって一応は共和政的な要素を持っていた統領政府は終わりを告げ、世襲の王を戴く中世的専制国家に戻ったが、ナポレオンは国王では無く、皇帝を称したので、フランスは帝国となった。これが第一帝政(1804~1814,15)へと移行した。