印刷 | 通常画面に戻る |

宗教協約/コンコルダート

宗教和約ともいい、特にフランス革命で断絶したローマ教皇との関係を、ナポレオンが1801年に修復したことを言う。

 宗教協約、宗教和約ともいい、カトリック教会(その頂点としてのローマ教皇)と世俗の政治権力の間で結ばれる協定のこと。叙任権闘争におけるヴォルムスの協約もその例である。特に、フランス革命によってカトリック教会領が没収されたり、ジャコバン独裁政権のもとで非キリスト教化が進められて以来、断絶していたフランス政府とローマ教会の関係を修復させた、1801年ナポレオンとローマ教皇ピウス7世のコンコルダートが有名。

ナポレオンのコンコルダート

 フランス革命が勃発すると、旧制度時代の教会の圧政や堕落に対する不満や批判が表面化し、革命政府は教会の十分の一税を廃止し、さらに教会財産を没収するという措置をとったため、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会側と激しい対立に陥った。教会勢力は反革命勢力と結びついて、フランスの不安定要素の一つとなっていた。1796年4月からのイタリア遠征を開始してオーストリア勢力の排除を開始したナポレオンは1798年2月に軍隊をローマに派遣、占領してローマ共和国を樹立した。
 しかし、1799年に権力を握って第一統領となったナポレオンは、支配を安定させるために、従来の革命政府の反教会政策を転換し、ローマ教皇との和解を模索するようになった。1801年7月15日、執政官(第一統領)ナポレオンと、ローマ教皇ピウス7世の間で修好条約が締結された。これによってフランス革命以来断絶していたカトリック教会とフランスとの関係が修復された。フランスはカトリックを国民の大多数の宗教として認め、カトリック側は司教の任命権をフランスの主権者の手に与えることを認めた。以後、カトリック教会はフランス社会での大きな影響力を回復し、ナポレオン没落後の復古王政でも王権を支える勢力となる。

近代フランスの政教分離

 しかし、カトリック内部にもイエズス会とジャンセニズム(17世紀オランダのヤンセンがはじめ、フランスに広がった、教皇の権威よりも神の恩寵を重視する信仰)や、ガリカニスム(ローマ教皇庁からフランスの教会の独立を主張する勢力)などの対立もあり、19世紀後半には政治や教育への宗教の介入を否定する動きが強まり、1905年の政教分離法でコンコルダートは破棄されることになる。
印 刷
印刷画面へ