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宗教協約/コンコルダート

宗教和約ともいい、特にフランス革命で断絶したローマ教皇との関係を、ナポレオンが1801年に修復したことを言う。カトリック教会とその信仰は認められることになったが、聖職者任命権は第一執政が持ち、その身分も公務員とされるなど、教会は大幅に世俗政権に服従することとなった。

 宗教協約、宗教和約ともいい、カトリック教会(その頂点としてのローマ教皇)と世俗の政治権力の間で結ばれる協定のこと。叙任権闘争におけるヴォルムスの協約もその例である。特に、フランス革命によってカトリック教会領が没収されたり、ジャコバン独裁政権のもとで非キリスト教化が進められて以来、断絶していたフランス政府とローマ教会の関係を修復させた、1801年ナポレオンとローマ教皇ピウス7世のコンコルダートが有名。

フランスのカトリック教会

 フランスでは5世紀末のフランク王国メロヴィング朝のクローヴィスの改宗以来、キリスト教カトリック教会の信仰が定着しく、16世紀以降はブルボン朝の絶対王政の下ではガリカニスムといわれるフランスの教会はフランス王権の統制を受けるという感が方が強まり、王権とローマ教皇の関係は希薄であるという傾向が強かった。それでもアンシャン=レジーム(旧制度)の下ではキリスト教はいわば国教として意識され、農民は封建領主化した教会に日常生活を支配され、十分の一税の義務を負うなど、不満が徐々に高まっていた。

フランス革命とカトリック教会

 フランス革命が勃発すると、旧制度時代の教会の圧政や堕落に対する不満や批判が表面化し、革命政府は教会の十分の一税を廃止し、さらに教会財産の国有化(没収)するなどの措置をとったため、カトリック教会側と激しい対立に陥った。ローマ教皇もフランスのカトリック教会を支持、教会勢力は反革命勢力と結びついて、フランスの不安定要素の一つとなっていった。さらにジャコバン派独裁政権が成立すると、宗教そのものを否定する理性の崇拝が打ち出され、聖職者への迫害がさらに強まった。ロベスピエール自身は無視論を否定し、新たな市民道徳のよりどころとして1794年6月8日最高存在の祭典を挙行した。一方で、フランス南西部など周辺地域では民衆の中に根強いカトリック信仰が残り、また国外に亡命した貴族はカトリックの復興を策する勢力も強かった。

ナポレオンのコンコルダート

 ナポレオンは革命政府に仕える軍人として、1796年4月からのイタリア遠征を開始してオーストリア勢力の排除にあたったが、その間ナポレオンは、1798年2月に軍隊をローマに派遣、占領してローマ共和国を樹立した。
 さらに、1799年11月のブリュメール18日のクーデターで権力を握り、第一統領となると、ナポレオンは独裁的な支配を安定させるために、従来の革命政府の反教会政策を転換し、ローマ教皇との和解を模索するようになった。
 1801年7月15日、執政官(第一統領)ナポレオンはローマ教皇ピウス7世との間で、修好条約を締結した。これによってフランス革命以来断絶していたカトリック教会とフランスとの関係を修復した。フランスはカトリックを国民の大多数の宗教として認め、カトリック側は司教の任命権をフランスの主権者の手に与えることを認めた。以後、カトリック教会はフランス社会での大きな影響力を回復し、ナポレオン没落後の復古王政でも王権を支える勢力となる。

コンコルダート(宗教和議)の要点

 17条に及び協約の主な内容を挙げれば次のようになる。
  • 「共和国政府は、カトリックにして使徒伝来のローマの宗教が、フランス市民の大多数の宗教であることを認める。(第1条)
    (説明)この宣言と引き換えに教皇はフランス共和国を承認する。「国教」ではなく「大多数の宗教」とされたこでカトリック以外の信仰も認められたことにカトリック側には不満が残った。
  • 共和国第一執政が、大司教と司教を指名し、教皇猊下は彼らを叙階する。(第4条)
    (説明)同時に革命以前の司教職は大幅に削減され、60司教区となった。ローマ教皇に認められたのは形式的な証人に過ぎなかった。
  • 司教は職務につく前に、第一執政にたいして直接に忠誠を誓うものとする。(第6条)
  • 司教はそれぞれの教区を新しい小教区に区画する。この区画は政府の承認を得てはじめて発効する。(第9条)
  • 司教は主任司祭を任命する。ただし、政府の承認した人物しか選ぶことができない。(第10条)
    (説明)第6~10条で、人事も教区の編成も政府の指導で行われることとなった。
  • 教皇はすでに行われた教会財産の売却を承認し、返却要求しないことを了承した。(第13条)
  • 司教と主任司祭には政府から俸給が支給される。(第14条)
    (説明)革命初期に定められた聖職者民事基本法による聖職者の公務員化が継続された。
 総じて言えることは、コンコルダートによってフランスにおけるカトリック教会は復権し、認められたが、当事に世俗権力であるフランス政府によって管理されることになった。つまり「国家の世俗性はゆるぎなく、教会は完全に従属することとなった」。<谷川稔『十字架と三色旗』2013 岩波現代文庫 p.128-131>

近代フランスの政教分離

 しかし、カトリック内部にもイエズス会とジャンセニズム(17世紀オランダのヤンセンがはじめ、フランスに広がった教皇の権威よりも神の恩寵を重視する信仰)や、ガリカニスム(ローマ教皇庁からフランスの教会の独立を主張する勢力)などとの対立もあり、カトリック復権は純情ではなかった。19世紀後半の第三共和制の下で、共和政が推進されていることに対してカトリック信仰と王政というフランス国家の伝統の復活をめざす保守思想が台頭し、それらの右派勢力の中に反ユダヤ主義が強まって、ドレフュス事件(ユダヤ人将校の冤罪事件)などが起こったことによって、再び政治と宗教の分離が求められるようになり、1905年に政教分離法が成立してコンコルダートは破棄されることになる。その後もフランスでは政治や教育への宗教の介入を否定する動きが強く、21世紀に入るとイスラーム教徒の移民の増大にともない、ムスリムの学校でのベールの着用などが深刻な問題となっている。