シュタイン
19世紀初め、プロイセンの首相として国制改革を主導した人物。農民解放などを実行こうした。
「帝国騎士」といわれる神聖ローマ帝国皇帝直属の貴族に生まれ、プロイセン王国に招へいされ、1806年に首相となり、1807年10月から「プロイセン改革」(シュタイン・ハルデンベルク改革)を主導した。就任直後に「十月勅令」を発布して農民解放を行い、領主(土地貴族)と農民の人格的隷属関係を廃止した。さらに翌年、「都市条例」を制定して市会議員の公選制などを認め、中央行政では大臣の合議制による閣議を再考決定機関とした。シュタインの改革に並行して、シャルンホルスト・グナイゼナウ・クラウゼヴィッツら革新派軍人による軍政改革も行われ、またベルリン大学でフィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」の連続講演も行われた。しかし翌08年、ナポレオンの圧力によって解任され、改革は1810年からのハルデンベルクが継承する。
Episode シュタインの解任とその後
こうして改革機運がもちあがったが、国王周辺の貴族保守派はシュタインを「不正官僚」と非難し、シュタインは反ナポレオンの挙兵を計画しているという密告がナポレオンにもたらされたため、ナポレオンの怒りを買い、1808年国王によって解任されてしまった。シュタインはオーストリアに亡命後、ロシア皇帝アレクサンドル1世に招かれてロシアに赴き、その信任を得て対仏作戦の助言者となった。改革派の軍人クラウゼヴィッツもロシアに亡命し、有名な『戦争論』を書いた。1812年、ナポレオンがロシアに遠征したとき、シュタインはフランス遠征軍に駆り出されたドイツ人部隊に檄文を送り、「征服者のためにロシア国境までかりだされたドイツ人諸君、隷属の旗を捨てよ! 祖国、自由、国民的名誉の旗のもとに集まれ!」と呼びかけた。この呼びかけに応じて投降した兵士を加えてロシア=ドイツ軍団が結成され、ナポレオン軍と戦った。ナポレオン撤退後、シュタインはプロイセン国王にすすめてロシアとの同盟条約を成立させ、ナポレオンからの解放を成就させた。しかし、ウィーン会議ではドイツの統一と自由は認められず、シュタインのナショナリズムは実現しなかった。政治に幻滅したシュタインは引退して、ドイツ史研究を志し、史料の集成に努力し、『ドイツ史資料』総数200巻を編纂した。<『世界の歴史』10 中央公論社旧版 p.435-438>