印刷 | 通常画面に戻る |

ナポレオンのロシア遠征/モスクワ遠征

1812年、ナポレオンが行った大遠征。ロシアの大陸封鎖令違反を口実に征服を企て、40万の大軍を派遣、9月にモスクワを占領したが、糧道を断たれ撤退。帰路に大きな犠牲を出し、その没落の始まりとなった。

 1812年5月、ナポレオン1世は大軍を率いてロシアへの大遠征を開始した。「モスクワ遠征」ともいう。6月、プロイセンやポーランドの兵を加えたフランス軍はロシア領に侵攻し、9月にモスクワに入城した。それは、ロシアが大陸封鎖令に反してイギリスと貿易をしていることに対する懲罰として行われたが、ヨーロッパの覇権を目指すナポレオン戦争の最大の軍事行動であった。

ロシア遠征の背景と実際

遠征の理由と背景 遠征の理由はロシアのアレクサンドル1世が、ナポレオンの出した大陸封鎖令に反して、イギリスに対する穀物輸出を続けていることに対する制裁であった。ナポレオンが後継者を得ようとしてジョセフィーヌを離婚し、ロシア皇帝の妹を皇后に迎えようとしたが、アレクサンドル1世がはっきりしない態度を取ったために怒ったとも言われている。1810年、ナポレオンはオーストリアの皇女マリー=ルイーズと再婚することになったので、ロシアとの関係は切れた。反面、ナポレオンとオーストリアの結びつきの背景にはナポレオンの東地中海(その要地のイスタンブル)への野心があるのではないかとロシアは警戒した。
遠征の開始 1810年12月、アレクサンドル1世はフランス商品の輸入に重税をかけた。ナポレオンはロシアがイギリスへの穀物輸出を止めようとしないことに苛立ちを感じていた。そのロシアを征服することでヨーロッパ大陸支配の完成になると考え、遠征計画を立てたが、フランス国内では経済危機で失業者の増加、不作のため食糧高騰、財政悪化などのためすぐに遠征軍を派遣できず、ようやく1812年になってプロイセン・オーストリアとの同盟を成立させ、5月9日、ナポレオンは新婚の皇后マリー=ルイーズを伴い、サン-クルー宮殿を出発した。
ナポレオン軍の実態 この遠征で、ナポレオンが集めた兵力は67万5千に達したが、フランス兵はそのうちの約30万で、あとはオーストリア、プロイセンなどの同盟国からかき集めた兵力であった。その中にはワルシャワ大公国のポーランド兵もいた。6月、ナポレオン軍はロシアの国境、ネマン川を越えてその領内に侵攻した。
※フランス兵は革命期に始まった徴兵制によって徴発された兵士たちであった。兵士は初めは籤引きで選ばれていたが、この頃には兵員不足から18歳以上の壮年のすべてが動員されるのが実態であり、彼らの戦闘意欲はかならずしも高くなかった。また外国兵はロシア兵と戦う動機に乏しく、厭戦気分が初めから蔓延していた。<このあたりは、両角良彦『1812年の雪―モスクワからの敗走』初刊1980 筑摩書房 p.18-21 に詳しい。>
ロシア軍の後退作戦 ナポレオン軍はバルト海方面からモスクワを目指して進軍したが、ロシア軍は直接の戦闘を避けてひたすら退却、8月にはロシア軍の手で焼き払われたスモレンスクに入った。しかしその間ナポレオン軍には赤痢が広がり、食糧の補給が困難となって次々と脱走兵がでて、その数は15万にも達した。9月、ボロディノで初めて本格的な会戦があり、ナポレオン軍は3万の犠牲を出しながら突破し、9月14日についにモスクワに入城した。

ナポレオンのモスクワ入城

 ロシアの文豪トルストイの『戦争と平和』に描かれたナポレオンのモスクワ入城の情景は次のようなものである。
(引用)9月2日、モスクワではフランス軍をくい止めて戦うことは出来ないと判断したクツゥーゾフは、軍のリャザンへの撤退を命じる。翌日フランス軍がモスクワにはいる。先遣隊は無人のモスクワに驚愕、ロシア人貴族との交渉に意気込んでいるナポレオンを「滑稽な(リディキュール)な状態においてしまうことを重臣連中は恐れる。結局モスクワが空であることを知ったナポレオンは「モスクワが空だ。実にありうべからざる出来事だ。」とひとりごちる。(P.504-513)モスクワ総督ラストプチンがモスクワ放棄直前に行ったヴェレシチャーギン(ナポレオン賛美のビラを撒いた)を処刑したことが述べられている。(P.539-542)モスクワ炎上はどちらかの手によるものではないこと。<トルストイ/米川正夫訳『戦争と平和』第三部第三編 岩波文庫Ⅲ P.553-554>

参考 チャイコフスキー 「大序曲1812年」

 ロシアの作曲家チャイコフスキー(1840~93)は、ナポレオンのモスクワ遠征を題材に、1880年に「大序曲1812年」(作品49 変ホ長調)を作曲している。独立した序曲でチャイコフスキーの作品としては重要ではないが、歴史的出来事に題材を採り、ロシアの愛国心を恥ずかしげもなく謳いあげている。侵入するナポレオン軍を「ラ=マルセイエーズ」で表現し、フランス軍が旗色が悪くなるにつれて弱々しくなり、代わってロシア帝国国歌が高らかに鳴り響き、何とクライマックスでは本物の大砲の音を使うというしろものである。ということで人気が高く、自衛隊軍楽隊も大砲入りでよく演奏する。もっとも旧ソ連時代はロシア帝国国歌は演奏できなかったので、その部分は別な曲が使われたそうです。

モスクワからの退却

 しかしロシア軍のクトゥーゾフ将軍はモスクワに火をつけて退却、もぬけの殻のモスクワに入ったナポレオン軍は糧道を断たれていた。そのためナポレオンは退却を決意、10月19日に退却を開始した。しかし退却するナポレオン軍は「冬将軍」と言われる厳しい冬の寒気に悩まされ、食糧不足とゲリラの襲撃に悩まされることになった。ネマン川に達してロシアを脱出した時、ナポレオン軍は、死者・捕虜・脱走兵を併せてじつに38万の兵力を失っていた。大きな犠牲を出し、遠征は失敗に終わった。
 ナポレオンは撤退する軍の指揮を部下のミュラ将軍に任せて戦線を離脱、帰還を急いだ。パリでナポレオンが戦死したという噂が広がり、クーデタが計画されているという情報があったからだった。12月18日にパリに帰還、まだナポレオン支持が厚いことを確かめ、態勢を整えた。しかし残されたミュラ将軍と将兵は厳冬のベレジナ川の渡河に失敗、ほとんどが凍死するか捕虜になって壊滅してしまった。

ロシアの祖国戦争

 1812年のナポレオン軍のモスクワ遠征は失敗に終わった。この侵略を撃退したロシア帝国は、この戦争を「祖国戦争」とよび、民族の誇りとするようになった。その勝利を導いたアレクサンドル1世は、“ナポレオンに勝った男”として一躍ヨーロッパで知られることになり、ナポレオン軍を追ってパリに入城し、さらにナポレオン戦争後のウィーン会議では主役の一人として活躍した。そしてウィーン体制のもとではロシアにはヨーロッパの憲兵の役割を負うことになる。
 しかし、アレクサンドル1世に従ってパリに乗り込んだロシア軍の青年将校はフランス革命後の自由と平等の思想で充満した雰囲気を目の当たりにした。彼らは帰国後、ロシアの近代化にはツァーリズムを倒し自由な言論や結社の自由、議会の開設などが必要だと考えるようになり、やがてデカブリストの反乱を起こすことになる。ナポレオンのモスクワ遠征は間接的にロシアの民族主義、自由主義運動に刺激を与えた、と言うことも出来る。
祖国戦争と大祖国戦争 1812年の「祖国戦争」の苦戦と勝利は、約130年後に繰り返されることとなる。1941年6月に始まった独ソ戦である。ヒトラーが独ソ不可侵条約を一方的に破棄して、ナチス=ドイツ軍を一斉に侵攻させ、ソ連は再びモスクワ陥落の一歩前まで攻め込まれた。しかしこのときもソ連軍は緒戦の敗北に耐えて、最終的にはドイツ軍を撃退した。2700万とも言われる膨大な犠牲を払ってナチス=ドイツの侵略を撃退したこの戦争をソ連ではナポレオンの侵略に対する「祖国戦争」になぞらえて「大祖国戦争」といっている。この緒戦の敗北はスターリンの判断ミスによるものであったが、結果的に勝利したために戦後のその独裁権力は一段と強化されることとなった。
印 刷
印刷画面へ
書籍 紹介

両角良彦
『1812年の雪
―モスクワからの敗走』
1985 講談社文庫
初刊1980 筑摩書房

著者は通産省事務次官を務めた役人にしてナポレオン研究家。古い本だがロシア遠征の悲喜劇を見事に描いたノンフィクション。1993年に新版が出されている。

CD 紹介

チャイコフスキー
『大序曲1812年』
小澤征爾指揮
ベルリン・フィル
Amazon Prime Video 案内

『戦争と平和』
A・ヘップバーン、M・ファーラー、H・フォンダが競演。ナポレオンによるモスクワ炎上のシーンも。3時間28分の大作。