印刷 | 通常画面に戻る |

シャルル10世

復古王政のブルボン朝国王。ルイ16世の弟。絶対王政を復活させ国民の反発を受け、1830年、七月革命で退位しフランス最後の王となった。

 19世紀フランス・ブルボン復古王政の二代目の国王。彼はルイ16世ルイ18世(プロヴァンス伯)の弟。王位継承前はアルトワ伯と称し、革命の早い時期に亡命し、ドイツのコブレンツなどを拠点に亡命貴族(エミグレ)の中心にあった。その後、ナポレオン没落後フランスに戻り、兄のルイ18世の王政復古後は、最も反動的な王党派貴族に担がれ、その象徴となった。

復古王政の反動政治

 1824年、兄ルイ18世の死に伴いシャルル10世として王位を継承したが、兄王が立憲君主政をとったのに対して、絶対王政の完全な復活を策し、亡命貴族の財産を保障するなど、より反動的な政策をとったため、国民の反発を強く受けるようになった。このシャルル10世の復古王政の時期には、カトリック教会の聖職者が特にそれを支える保守勢力として力を振るった。
 シャルル10世は、1829年、内閣に亡命貴族のポリニャック公を起用し復古王政の体制を固めようとしたが、ポリニャックは貴族の復権や自由主義の言論弾圧を策し、国民は警戒を強めた。1830年3月、議会下院で内閣不信任案が可決されると、国王は5月に議会を解散させたので、7月に選挙が行われることになった。

アルジェリア出兵

 1830年、国王と内閣は、選挙を優位に進めるため、国民の歓心を買い、反発をそらす策として、アルジェリア出兵を強行した。7月5日、フランス軍はアルジェを占領したが、この外交的勝利で国民の支持を得ようという国王の思惑はなずれてしまった。シャルル10世、ポリニャック内閣に対する批判は収まらず、予定通り実施された7月の選挙では王党派が激しく自由派を攻撃したが、結果は反国王・反政府派の圧勝であった。

反動的な王令発布

 追い詰められたシャルル10世は、憲法に基づいた国王の大権を行使すると称して、7月25日に次のような4か条の王令に署名し、翌日布告した。
  • 出版の自由の停止する。
  • 未招集のまま、議会を解散する。
  • 選挙資格を厳しくすると共に議員定数を238人に削減。
  • 9月初旬に新選挙法に基づいて選挙を実施する。
 つまり、7月の選挙をチャラにして、選挙資格を厳しくした選挙法で選挙をやり直す、というのであるから国民は怒った。反政府系ジャーナリズムは一斉にこの七月王令に反発して号外を発行、それを知ったパリ市民が夜に入ってセーヌ河畔に集まり15年ぶりに三色旗がひるがえった。

七月革命の勃発

 7月27日、政府は王令を無視して新聞を発行したことを理由に警察が版元に介入、各地で小競り合いが起きて軍隊も出動し、七月革命の勃発となった。革命派の「栄光の三日間」のバリケードには正規軍も加わり、激しい戦闘の結果、ルーヴル宮にも三色旗が翻り、ヴェルサイユ宮殿の近くにいたシャルル10世はパリに戻ることなく退位し、8月半ばにイギリスに亡命した。シャルル自身では3度目の亡命であり、これによりフランスのブルボン王朝は終わりを告げた。
印 刷
印刷画面へ