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ドイツの反乱

1830年、フランスの七月革命の影響を受け、ドイツ連邦各地でも憲法制定の動きが強まり、一部で反乱が起こった。

 ウィーン会議で調印されたウィーン議定書によって成立したドイツ連邦でも、憲法を制定して君主の権限を制限し、市民の自由や平等を実現しようとする運動が起こってきた。また、連邦の議長国であるオーストリア、それに対抗するプロイセンという二大勢力の対立抗争によってドイツ人国家の形成が妨げられていることへのいらだちなどが高まっていた。

七月革命の影響

 1830年、フランスの七月革命で復古王政が倒され、ブルジョワジー主体の立憲王政である七月王政が成立したことは、ドイツのブルジョワジーにも希望をあたえ、ザクセン、ハノーファー、ブラウンシュヴァイク、クールヘッセンで暴動が起こり、それによってこれらの国が新たに憲法を獲得した。しかし、グーツヘルシャフト(大農園)領主である支配層の支持を受けた権力側はそれらを抑えにかかった。また国の違いを超えた全ドイツの運動も起こりかけたが、時期尚早という考えから、解散してしまい、運動を進めた人々は弾圧を恐れてパリなどに亡命した。
 このころ、文学の立場から最も熱心にドイツの革命と統一を目指していたのが、ハインリヒ=ハイネであった。ユダヤ人であったハイネは、パリで文学活動をしながらドイツに革命を鼓舞する文を送り続けていた。  
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