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ドイツ連邦

1815年、ウィーン会議の結果、ウィーン議定書で成立した連邦。オーストリアが連邦議会議長を務めた。1848年に実質的に崩壊し、1851年に復活したが、最終的には1866年の普墺戦争によって消滅した。

 ドイツ連邦 Deutscher Bund はウィーン会議において合意され、ナポレオンが樹立したライン同盟に代わって1815年5月に成立した、ドイツの連邦国家。同年6月のウィーン議定書で確定し、35の領邦と4つの自由都市から構成された全ドイツ(ドイツ語圏)に及ぶ国家連合体であった。
 各国はそれぞれ独立国家として権限を保持しながら加盟し、フランクフルトに連邦議会を置いて代表を送った。ただし議会と言っても議員を選挙で選ぶのではなく、領邦・都市の代表が決められた議席数に応じて参加するだけであった。連邦議会議長はオーストリアが務めることとなり、その主導権が認められた(オーストリア領ハンガリーは含まれない)。その他の主要な加盟国はプロイセンバイエルンザクセンハノーファーなど。ルクセンブルク大公国も加盟した。その他、公国・選帝侯国・侯国として認められた領邦も加盟したが、議席数は2~1と少なかった。また中世以来、帝国都市と言われて封建諸侯から自立していた都市の中で、リューベックフランクフルトブレーメンハンブルクが加盟し、連邦議会に議員1名を送った。
※現代のドイツ連邦共和国 Bundesrepublik Deutschland とは異なるので注意。

参考 ドイツ連邦を構成する領邦と自由都市

国位 領邦名・市名 ( )は連邦議会の議席数 1817年
帝国 オーストリア(4)
王国 プロイセン(4)・ザクセン(4)・バイエルン(4)・ハノーファー(4)・ヴュルテンベルク(4)
大公国 バーデン(4)・ヘッセン=ダルムシュタット(3)・ルクセンブルク(3)・メックレンブルク=シュヴェーリン(2)・ザクセン=ワイマル(1)・メックレンブルク=シュトレーリック(1)・オルデンブルク(1)
公国 ホルシュタイン(3)・ブラウンシュヴァイク(2)・ナッサウ(2)・ザクセン=ゴータ(1)・ザクセン=コーブルク(1)・ザクセン=マイニンゲン(1)・ザクセン=ヒルトブルクハウゼン(1)・アンハルト=デッサウ(1)・アンハルト=ベルンブルク(1)・アンハルト=ケーテン(1)
選帝侯国 ヘッセン=カッセル(3)
侯国 シュヴァルツブルク=ゾンデルスハウゼン(1)・シュヴァルツブルク=ルードルフシュタット(1)・ホーエンツォレルン=ヘッヒンゲン(1)・リヒテンシュタイン(1)・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン(1)・ワルデック(1)・ロイス(兄系)(1)・ロイス(弟系)(1)・シャウムブルク=リッペ(1)・リッペ=デトモルト(1)
自由市 リューベック(1)・フランクフルト(1)・ブレーメン(1)・ハンブルク(1)
 ・他に地方伯のヘッセン=ホンブルクが加盟しているが、連邦議会に議席は持たなかった。
 ・この後に領邦間の統合や併合があり、時期によって構成国は異なっている。

ドイツ連邦の性格

(引用)ウィーン会議でつくられたドイツ連邦は、神聖ローマ帝国に代わるドイツ諸国家(主権的諸港と自由都市)約40の連邦組織だが、これ自体、ヨーロッパの勢力均衡の縮図ともいえるものであった。そもそもハノーファー王国の君主はイギリス国王、ホルシュタインの君主はデンマーク国王、ルクセンブルクの君主はオランダ国王であって、ドイツ連邦といっても国際的な君主同盟に近いのである。・・・
 だからこれは到底ドイツの統一国家とは言えないものであった。ヨーロッパの勢力均衡のためには、ドイツは強力な統一国家などにならないほうがよい。それがむしろメッテルニヒの考えだったのである。民族統一など彼にとってはもとより論外であった。そもそも彼の率いるオーストリア帝国が、チェコ・ハンガリーから北イタリアにも伸びる多民族国家であって、この帝国自体、民族統一や民族自決などという原理とは全く相容れない性質の国なのである。<坂井榮八郎『ドイツ史10講』2003 岩波新書 p.125-126>

Episode 「でくのぼう」の連邦?

また、次に19世紀後半に出現する、ビスマルク主導のドイツ帝国に対して、ドイツ連邦をどう評価するか、次のような説明も見られる。
(引用)ではビスマルク以前はどうだったか。1851年に復活したドイツ連邦は、わずか15年しか存続しなかった。そして1815年に生まれたがんらいのドイツ連邦は、33年のあいだ、絶えざる批判と拒絶にいたぶられた末、1848年の革命の嵐に吹き飛ばされ消えていった。ドイツ連邦はほとんど始めから終わりまで、こんなざれ歌を浴びせられ続けた。「おお、連邦、畜生、でくのぼう」<ハフナー/瀬野文教訳『ドイツ現代史の正しい見方』(原著)1985 (訳書)2006 草思社 p.189-190>

ドイツ連邦議会

 議会と言っても国民の選挙で選ばれた議員によって構成されるのではなく、かつての神聖ローマ帝国議会の後身とも言える、各国代表の集まる公使会議にすぎなかった。また、オーストリアが恒常的議長国となってその指導性が明確にされたが、実際にこの国がヘゲモニーを握ったわけではない。連邦国には国の大きさに応じて票が配分され、全69票のうちオーストリア・プロイセン・バイエルン・バーデンが各4票で一国が突出しないように分配されていた。

連邦内の自由主義運動

 ウィーン体制のもとで、ドイツ連邦でも、自由主義やナショナリズムの運動が強まり、1817年10月には宗教改革300年祭とライプツィヒの戦勝記念祭にブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)の蜂起があったが、メッテルニヒ1819年にドイツ連邦諸国とカールスバートの決議を行い、言論統制・大学監視などの弾圧を強めた。メッテルニヒは各国の権力を握る貴族、大地主層の地位と利益を守ることに力を注いだのだった。1830年にフランスの七月革命で絶対王政が倒され、ブルジョワを主体とする立憲王政の七月王政が成立したことの影響がドイツにも及んでドイツの反乱が各地で起き、ザクセン、ハノーファーなどでは憲法が制定された。しかし各国の運動は分断されて、ドイツ全体の運動には発展せず、軍隊の力で抑えつけられてしまった。

ドイツ連邦の解体・復活

 ドイツ連邦はウィーン体制の時代を通じて存続したが、各国はそれぞれ国王政府と議会を持ち、それぞれ異なる政策を掲げたので、まとまりは弱かった。1848年革命の波がベルリンとウィーンにも波及し三月革命が勃発すると、ドイツ民族の統一が叫ばれ、1848年5月18日フランクフルト国民議会が開催され、ドイツ連邦はいったん、権能を停止した。
 しかし国民議会自身も大ドイツ主義と小ドイツ主義の対立、言い換えればオーストリアとプロイセンの主導権争いの結果空中分解して、1851年にドイツ連邦は形の上で復活した。

ドイツ連邦の消滅

 プロイセンは1834年ドイツ関税同盟を結成、それをテコとして経済的統一を進めていた。さらに19世紀後半になると、プロイセン王国の宰相となったユンカー出身のビスマルクは軍備を増強してドイツ統一の主導権を握ろうとした。1864年デンマーク戦争ではオーストリアと共同してデンマークと戦い、それぞれ領土を拡張したが、次第に利害の対立は表面化し、ついに1866年普墺戦争として火を噴き、プロイセンの勝利に終わると、プラハ条約が締結されてドイツ連邦は正式に解体、消滅した。翌1867年にプロイセン王を中心とする北ドイツ連邦を結成した。
ドイツ帝国の成立へ  さらにビスマルクは1870年7月、普仏戦争での勝利によってプロイセン王を皇帝とするドイツ帝国を樹立することに成功することなる。一方のオーストリアは普墺戦争の敗北を機に、かねて反発が強かったハンガリーの独立を認める妥協を行い、同年、オーストリア=ハンガリー(二重)帝国を発足させた。

ドイツ連邦の評価と限界

 メッテルニヒが想定したドイツ連邦は、オーストリア・プロイセンを中心に、39の独立した邦国を、国家主権を保持したまま相互の安全保障をはかるという体制であった。フランクフルトに連邦議会をもち、オーストリアが議長国ではあるが、連邦元首や中央執行機関は置いていない(この点では現在のEUと異なっている)。連邦軍は対仏防衛のための要塞を建築するだけで実態はない。内部紛争解決のために仲裁裁判所はあったが、それ以外の連邦としての国家的機能は設けられていない(従って統一したドイツと見ることはできない)。一見対外安全保障としては不十分なようにみえるが、加盟する邦国の中には、イギリス国王を兼ねているハノーファー王国、デンマーク国王を兼ねるホルシュタイン公国、オランダ国王でもあるルクセンブルク大公国という外国君主が参加している点では、国際的平和維持機構としての機能を有していた。しかし、それ半世紀間しか機能せず、1866年にオーストリアとプロイセンが衝突する普墺戦争で崩れた。<谷川稔『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』世界の歴史22 1999 中央公論新社 p.48-49>