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ウィーン議定書

ウィーン会議の最後に1815年6月9日に調印された、ヨーロッパをナポレオン戦争前の状態に戻すことを主眼とした列国の国際的取り決め。

 1814年9月から始まったウィーン会議は参加した各国の利害対立があったため、話し合いが長びいていたが、1815年2月、ナポレオンのエルバ島脱出の知らせを受け、急きょ結論を出すことに迫られ、1815年6月9日に最終的に合意が成立し、議定書を調印した。ウィーン最終議定書、ウィーン条約とも言われる議定書の主な内容は次の通り。
  1. 正統主義の原則に基づき、フランススペインナポリ王国ポルトガルなどの旧君主の復位。それに伴いフランスは1792年当時の国境に戻す。
  2. ロシアワルシャワ大公国の大部分を併合しポーランド立憲王国とし、ロシア皇帝がポーランド王をかねる。その他、フィンランドベッサラビアを獲得。
  3. プロイセンザクセンの北半分とラインラント、ワルシャワ大公国の一部を獲得、領土を東西に拡張した。
  4. オーストリアネーデルラント、ポーランドなどの所領を放棄し、その代償としてヴェネツィアロンバルディアを合わせたロンバルド=ヴェネト王国を直接統治することなど、北イタリアの実質的統治権を認められた。
  5. イギリスは旧オランダ領のスリランカ(セイロン島)、ケープ植民地を獲得したほか、マルタ島、イオニア諸島(ギリシア西岸)の領有を認められた。
  6. スイスは永世中立国となる。
  7. ドイツは35邦4自由都市よりなるドイツ連邦を構成し、フランクフルトに連邦議会を置き、オーストリアが議長となる。
  8. スウェーデンフィンランドをロシアに、ポンメルン(バルト沿岸の現在のドイツ・ポーランド国境付近)をプロイセンに譲り、代わりにデンマークからノルウェーを獲得。
  9. オランダオランダ立憲王国となり、旧オーストリア領南ネーデルラント(後のベルギー)を併合。

メッテルニヒの狙い フランス復活の阻止

 このウィーン議定書のとりまとめを主導したのはオーストリアの外相メッテルニヒであった。メッテルニヒの狙いは、フランス革命で出現した共和政を否定して、君主制国家に戻すことと同時に、フランスが大国として復活することを阻止し、再び領土拡張の乗り出さないように封じ込めておくことであり、フランスはナポレオン戦争で獲得した領土のすべてを放棄し、国境線は1792年の範囲に限定された。
 オーストリア領であった南ネーデルラントをあえて手放してオランダ立憲王国に与えたのもフランス封じ込めのためであった。スイスを永世中立国としたのも同様の意図であった。また北イタリアのロンバルド=ヴェネト王国、トスカーナ大公国などは間接的にオーストリアが統治し、政治・軍事で実権を握った。ライン川右岸のラインラントはプロイセンに与えてフランスに備えさせた。もう一つの勝利国であるロシアにはポーランド支配権が与えられ、バランスがとられた。イギリスはヨーロッパでナポレオンに屈しなかった唯一の国であったが、若干の海外領土を得たにとどまった。
 このような、ヨーロッパでの共和政革命の再発を防止し、フランスの大国化を防止する体制がウィーン体制といわれる「国際秩序」であった。
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