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1851年のクーデタ

フランスの第二共和政のもと、1848年に大統領に選出されたルイ=ナポレオンは議会と対立、1951年12月、軍隊を動員して議会を解散し権力を集中し、年末に国民投票で圧倒的な支持を受けた。その上で、翌52年末に再び国民投票を行い、皇帝ナポレオン3世となる。

 フランス1848年2月の二月革命で成立した第二共和政のもと、ルイ=ナポレオンは12月10日の大統領選挙に出馬して当選、1848年12月15日大統領に就任した。
 さらに、ナポレオン大統領は1851年12月2日に軍隊を動員して議会を包囲、クーデタを決行した。議会多数派の秩序党首領ティエールらを逮捕、戒厳令を布告し、議会解散と普通選挙を復活して新たな議会を招集すると布告を出した。この日は、アウステルリッツの戦いでの戦勝とナポレオン1世の戴冠式の記念日にあたっていた。
 逮捕をまぬがれたヴィクトル=ユーゴー、ジュール=フェーブルら共和派はその夜、抵抗委員会を組織、サン=タントワーヌ街を中心にバリケードを築いて抵抗した。3日夜から4日にかけての市街戦で政府軍の砲火を浴び、粉砕され山岳派議員ボーダンら死亡。ユーゴーはからくもベルギーに逃げる。
 立法議会が解散させられたことによって1848年憲法は失効し、第二共和政は事実上ここで終わった。12月21日に行われた国民投票では、投票率83%、賛成92%の圧倒的多数がクーデタを支持するという結果となった。さらに1年後の翌1852年の年末に再び国民投票を行い、1852年12月2日(つまり、ナポレオン1世の戴冠式と1951年のクーデタ記念日)にナポレオン3世として即位し、第二帝政を開始することとなる。

第二共和政の議会

 ルイ=ナポレオンに、クーデタの正当性の口実を与えたのは第二共和政憲法そのものの規定であった。憲法は国民が選出する大統領に大きな権限を与えていたが、その任期は4年で、再任を認めていなかった。議会内では秩序党(ブルボン朝を正統とする正統王朝派、オルレアン家の王位を認める立憲君主派とカトリック勢力が合同して結成した右派勢力)が多数を占め、それに対抗するのは共和派は議会で少数派であり、ルイ=ナポレオンを支持するボナパルト派はまだごく少数であった。多数派の秩序党は、ルイ=ナポレオン大統領を単なる飾りであると無視し、保守派に都合の良い反動的な立法を立て続けに制定していた。

クーデタの大義名分

 このような状況で任期末が近づくと、ルイ=ナポレオンにとって権力を維持しようとすれば憲法を改正するかクーデタで議会を抑えつけるか、のいずれかしかなくなった。議会内部にはクーデタを避け、大統領と議会が話し合う議会政治を維持するには、憲法を改正すべきであるという意見もあった。アメリカの民主政治についての考察で著名な当時の外交官トクヴィルもその一人だった。しかし、議会は憲法改正には応じず、その前に選挙区に3年以上居住しなければ選挙権を認めないという選挙制度を改悪して労働者を排除しようとした。大統領ルイ=ナポレオンは選挙法改正の廃案を提案したが議会はそれを否決した。ここにルイ=ナポレオンは「普通選挙を擁護する護民官」としてクーデタの錦の御旗を得たのだった。<鹿島茂『怪帝ナポレオン3世』2004 講談社学術文庫版 p.122-134>
国民投票によるクーデタの追認 六月暴動以来の弾圧で指導者を失った労働者は、議会共和派の反動化で絶望していた。次第に、ナポレオンの甥という血統でありながら、サン=シモン主義の影響を受けて産業社会の形成による社会改良を主張し、『貧困の絶滅』という著作さえあるルイ=ナポレオンの「皇帝社会主義」に期待する者も出てきた。一方、ブルジョアジーは独裁よりも「赤い妖怪」の方を恐れ、小土地所有者は第一帝政時代の夢を追いナポレオン時代の栄光の再現を望んだ。その国民の多くが第二共和政の議会に不信感を強めていった情勢を冷静に見きわめてルイ=ナポレオンはクーデタを実行した。ルイ=ナポレオンが予想したように国民大衆はクーデタ支持に傾き、12月21日に実施されたクーデタの可否を問う国民投票では、約740万対60万でクーデタ承認され、翌年1月大統領任期を10年とし権限を強化した新憲法が発布される。
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