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ウーンデットニーの虐殺

1890年、アメリカの騎兵隊によって約350人のインディアンが虐殺された事件。インディアンの組織的抵抗の最後となった。

 1890年12月、アメリカ中西部のサウスダコタ州、ミシシッピ川の支流ホワイトリヴァーの河畔のウーンデットニー Wounded Knee (傷ついた膝)で、アメリカ合衆国騎兵隊によって、スー=インディアンの約300人が虐殺された。1830年のインディアン強制移住法に始まるアメリカ合衆国によるインディアンに対する殲滅作戦はほぼこれで終結し、インディアンはその後、各地の居留地に収容されて生活を続けることとなる。これは、アメリカにおけるフロンティアの消滅を意味している。

インディアン戦争の幕切れ

(引用)(インディアンに対する)強制移住は第二次セミノール戦争の終焉(1842年)あたりで一応終結する。いわゆるインディアン・ラインの西はインディアンたちが白人の邪魔をうけずに暮らすことのできる土地として、永久に保証されたはずであったが、約束はもちろん全く無視された。「西部劇」の開幕である。こうして1840年から1890年のウンディド・ニー・クリークで女子供をふくむ飢えさらばえたスー・インディアンのティピー(バファローの皮で作ったテント)の群れにおそいかかったアメリカ第七騎兵隊の兵隊たちは、たちまちその300人を殺りくした。200人は女と子供であった。1891年元旦、米兵は、凍てついて硬直した死体をたき木のように荷車につみ、大きな溝に放込んで埋めた。西部大平原のインディアン戦争の幕切れであった。<藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』1974 朝日選書 p.250>

事件の経緯

 1890年暮れ、アメリカ政府は最後まで抵抗を続けた平原インディアンのスー族を率いていたシッティング=ブルをインディアンからなる警官隊に襲撃させて殺害し、スー族の戦いは実質的に終わった。陸軍省はの残存部族を率いるビック・フットの逮捕命令を出し、捜索に当たった第七騎兵連隊のホイットサイド大尉は、12月28日、ビックフットの率いる約350人のバンド(集団)を捕捉した。バンドの大半は女子供であり、ビッグ・フットもその時すでに肺炎に罹り、戦えなかったので白旗を掲げた。ホイットサイド大尉はバンドをウーンデットニーのキャンプ地に連行し、そこで武装解除を命じた。一人のインディアンがそれを拒否したことから衝突が始まった。
(引用)混乱が始まってすぐ、乱射されるカービン銃の音は耳を聾するばかりになり、硝煙がいっぱいにたちこめた。凍った地面に手足をのばし、瀕死のみを横たえていた人びとの中に、ビッグ・フットがいた。やがて、つかの間の銃声がやんだが、何人かのインディアンと兵隊はナイフや棍棒やピストルを手にして渡りあっていた。武器を取り返した数人のインディアンはすぐにその場を逃げ出したが、たちまち丘の上に据えつけられた大きなホッチキス銃が彼らに向かって火を吐き、ほとんど一秒に一発の割合でとび出すその銃弾は、インディアンの野営地を掃射し、飛散する弾丸の破片でティピーをずたずたにし、男や女や子どもを殺した。・・・
 狂気の時間が過ぎたあと、ビック・フットとその部下の半数以上が死に、あるいは重傷を負っていた。確認された死者は153名だったが、大勢の負傷者が這って逃げようとして、のちに息をひきとった。ある算定によれば、はじめに350人を数えた男と女と子どものうち、最終的には合計三百人近くの死者を出したということである。兵隊は25人の死者と39人の負傷者を出したが、その大半は味方の銃弾や榴散弾によるものだった。・・・<ディー・ブラウン/鈴木主税訳『わが魂を聖地に埋めよ』下 1970 草思社 p.244>
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書籍案内

藤永茂
『アメリカ・インディアン秘史』
1974 朝日選書

D.ブラウン/鈴木主税訳
『わが魂を聖地に埋めよ』下
1972年 草思社