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フロンティア

アメリカ合衆国の西端に接する未開の地=辺境のこと。独立後の19世紀にインディアンを殺害、排除しながら進められた西漸運動によって西方に広がっていった。1890年に辺境の拡張は終わり、「フロンティアの消滅」といわれる。

 東部海岸沿いの13植民地から始まり、1776年に13州の連邦国家として独立宣言をしたアメリカ合衆国が、1803年のルイジアナ買収以来、次々と西部に進出してアメリカの領土拡大を進め、西漸運動によって辺境(フロンティア)を西に移動させていった。1848年にカリフォルニアを獲得して太平洋岸に到達し、最終的には1890年代にはフロンティアは消滅したと言われる。

フロンティア=スピリット

 この西部開拓を進めたアメリカ人の中に芽生えた、自然の脅威やインディアンの抵抗などにもめげずに、独立独歩で自己の生活基盤を築いていくという精神は、フロンティア=スピリットつまり「開拓者魂」と言われ、一つのアメリカ人像を造ることとなった。

フロンティア学説

 1893年、アメリカ合衆国のシカゴで、コロンブスのアメリカ大陸到達400周年を記念する世界博覧会が開催された。同じシカゴでその年、アメリカ歴史学会が開かれ32歳の新進気鋭の歴史家の発表が注目を集め、後のアメリカの歴史観に大きな影響を与えた。それはフレデリック=J=ターナーの「アメリカ史におけるフロンティアの意味」という発表だった。それは後に「フロンティア学説」と言われるもので、要旨は、まず当時主流だったアメリカ史をヨーロッパ史の延長として分析するのではなく、つまりアメリカ史における北東部重視を否定し、アメリカの歴史の特質は西部へのフロンティアの拡大に伴って民主主義が増進したことにある、と主張した。彼に拠れば、フロンティアの個人主義が民主主義を促進し、粗野ではあるがたくましい精神力、自由から生まれる快活さなどの特性もそこから生まれた、という。ターナーはアメリカ史における西部開拓の重要性を強調したが、同時に1890年の国勢調査が「フロンティアの消滅」を告げている、と述べた。そしてそれは南北戦争後のアメリカ合衆国が産業化、工業力が進み、すでにフロンティア時代の生活様式は失われ「フロンティアは過ぎ去り、それとともにアメリカ史の最初の時代が終わった」と結論づけた。<『アメリカ外交とは何か -歴史のなかの自画像』西崎文子 2004 岩波新書 p.51-56>

フロンティアの消滅

 アメリカ合衆国のフロンティアは、1890年に消滅したとされている。19世紀にアメリカ合衆国が西に向けて領土を拡大する過程で、開拓の最前線の「文明と未開の境界線」がフロンティアと言われた。19世紀の西漸運動を通じてフロンティア・スピリット「開拓者魂」がアメリカ民主主義を増進させたという考え方がある。しかし、19世紀中ごろには領土は太平洋岸に達して、領土の拡大の結果として南部と北部の対立が生じて南北戦争となり、その危機を克服した後は工業化が進んでゆき、並行して新たな移民も増加し、いわゆる開拓者精神は失われていった。1893年の歴史家F=J=ターナーは、アメリカ史におけるフロンティアの意義の強調すると共に、1890年の国勢調査がフロンティアの消滅を告げていると指摘した。
 このフロンティアの消滅の時期は、同時にアメリカ合衆国の資本主義経済における独占の形成が帝国主義の段階に入った時期と重なっており、新たに海外領土・植民地を獲得するというアメリカ帝国主義の時代が開始されることとなる。

インディアンの抵抗の終わり

 1890年の暮れ、サウス・ダコタのウーンデットニーで、スー・インディアン約350人が軍隊に包囲され、武装解除されている間に争いが起って、300人近くが殺され、雪の中に横たわった。軍隊の側からは「戦闘」とよばれ、インディアンの側からは「虐殺」とよばれている事件だが、この時点で全米のインディアンは組織的抵抗のすべてを終わったのだ。有無を言わせぬ征服というのが実状であったろう。殺されずに運よく生き延びたインディアンは、荒野や山岳に指定されたリザヴェイションのなかに住まなければならなくなった。現在286もあるリザヴェイションは、アリゾナやニューメキシコを除くと、あとは細かくひっそりとしている。‥‥市民権を与えられたのは遙か後の1924年のことであり、投票権に至っては第二次世界大戦後の1948年なのである。インディアンの組織的抵抗がすべて終わった1890年、国勢調査の結果、フロンティア・ラインの消滅が報告された。<猿谷要『物語アメリカ史』中公新書 p.122-3>
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書籍案内

西崎文子
『アメリカ外交とは何か
-歴史のなかの自画像』
2004 岩波新書

猿谷要
『物語アメリカの歴史 超大国の行方』
1991 中公新書