インディアン強制移住法/強制移住法/先住民移住法
1830年、アメリカのジャクソン大統領の時に制定された、ミシシッピ東岸のインディアンを中西部に強制移住させる法律。
1830年5月28日、ジャクソン大統領の時に制定された法律で、アメリカ大陸の先住民であるインディアンを、ミシシッピー川以西の辺境地帯の保留地に移住させることを定めたもの。これによってインディアンのオクラホマ州を中心とした保留地への移住が強制的、合法的にすすめられた。<以下、藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』1974 朝日選書などによる>
インディアンの強制移住はジャクソン大統領の時に突然決まったわけではない。すでに19世紀の初めにジェファソン大統領はミシシッピ以西への隔離を考えており、白人とインディアンのトラブルが増え続ける一方で西部探検が進み、グレートプレーンズの大平原は砂漠が広がっていて白人の居住には向かないと言うことがわかってきてから具体化が始まった。モンロー大統領も1824年の教書でい強制移住の必要を説き、それを1830年の「インディアン強制移住法」で実行に移したのがジャクソン大統領だった。
※教科書上の扱い 2000年はじめまでは教科書では「インディアンに対する強制移住」として触れられ、用語集で「インディアン強制移住法」と明記されていた。現行山川教科書では「先住民をミシシッピ川以西に設定した居留地に強制的に移住させる政策」とされ、山川用語集では「先住民強制移住法」となった。インディアンを先住民と単純に言いかえるのは問題であることはインディアンの項を参照。他社では実教出版は「インディアン強制移住法」、帝国書院は「強制移住法」としている。
次第にアメリカ合衆国政府内にミシシッピ以東のインディアンを強制的に西部に移住させて問題を解決しようという考えが台頭し、ついに1812年の米英戦争(1812年戦争)でイギリス軍を破った英雄で、またクリーク=インディアンの掃討戦でも戦果を挙げていたジャクソンが1828年に大統領に就任して、その案が具体化した。インディアン強制移住法は1830年5月23日、下院で賛成102、反対97で成立した。それによって、ジャクソン大統領は、ミシシッピ川以東に住む、チョクトウ、クリーク、チカソー、セミノール、チェロキー(いわゆる開化5部族)、約6万人のインディアンを、必要とあらば強制手段によってミシシッピ以西の地に移住させる権限が与えられた。
チェロキー達はその有様を知って、強く移住に抵抗するようになった。チェロキーは議会を有して法律を制定し、独立国家としての体裁をもつチェロキー=ネーションを成立させており、その大統領(!)に選ばれていた指導者ジョン=ロスはたびたびワシントンに赴いてアメリカ政府と交渉したり、裁判に訴えた。アメリカ世論の中にもインディアンに同情的なものもあったが、1832年の大統領選挙でジャクソンが再選され、インディアンの希望は潰えた。ジャクソン大統領の姿勢は、合衆国の内部に別個のチェロキー=ネーションが存在することは許せないという政治的な面が強くなった。特にチョロキー=ネーションを抱えるジョージア州は強くその排除を連邦政府に迫った。そのような中で、チェロキー=ネーションの中に移住を承諾するかわりに良い条件を引き出そうという条件闘争派が生まれ、分裂した。条件闘争派はジョン=ロスが捕らえられている間に連邦政府と条約を結び、1837年元旦を期して第一陣が移住地目指して出発した。しかしこのグループはインディアンでも豊かな層で、大部分のインディアンは出獄したジョン=ロスに従って、チェロキー=ネーションを離れようとしなかった。1837年に大統領となったヴァン=ビューレンはジャクソンの子分だったのでチェロキーに移住を強く迫り、将軍スコットを派遣した。スコットは軍隊でチェロキーをいったん強制的に収容所に押し込んだ。収容所の惨状を見たジョン=ロスも、移住費用を政府が持つことでついに移住に同意した。
インディアンの強制移住はジャクソン大統領の時に突然決まったわけではない。すでに19世紀の初めにジェファソン大統領はミシシッピ以西への隔離を考えており、白人とインディアンのトラブルが増え続ける一方で西部探検が進み、グレートプレーンズの大平原は砂漠が広がっていて白人の居住には向かないと言うことがわかってきてから具体化が始まった。モンロー大統領も1824年の教書でい強制移住の必要を説き、それを1830年の「インディアン強制移住法」で実行に移したのがジャクソン大統領だった。
※教科書上の扱い 2000年はじめまでは教科書では「インディアンに対する強制移住」として触れられ、用語集で「インディアン強制移住法」と明記されていた。現行山川教科書では「先住民をミシシッピ川以西に設定した居留地に強制的に移住させる政策」とされ、山川用語集では「先住民強制移住法」となった。インディアンを先住民と単純に言いかえるのは問題であることはインディアンの項を参照。他社では実教出版は「インディアン強制移住法」、帝国書院は「強制移住法」としている。
ジャクソン大統領の登場まで
ミシシッピ以東の地(現在のジョージア州北西部、テネシー州、アラバマ州北部)は肥沃で、東海岸の白人がアパラチア山脈を越えて入植を進めていた。合衆国政府はたびたびインディアンと条約を結び、インディアンの居住権を保証したが、現実には守られなかった。また、インディアンに「つけ」で生活物資を買わせ、費用を払えないとその代わりに土地を取り上げるという形で実質的にインディアンを追い立てていった。しかし、インディアンの抵抗も根強く、またチェロキーのように文字を創ったり、自立の動きが出てきはじめ、政治的にも自治や独立国家の樹立さえ要求するようになってきた。次第にアメリカ合衆国政府内にミシシッピ以東のインディアンを強制的に西部に移住させて問題を解決しようという考えが台頭し、ついに1812年の米英戦争(1812年戦争)でイギリス軍を破った英雄で、またクリーク=インディアンの掃討戦でも戦果を挙げていたジャクソンが1828年に大統領に就任して、その案が具体化した。インディアン強制移住法は1830年5月23日、下院で賛成102、反対97で成立した。それによって、ジャクソン大統領は、ミシシッピ川以東に住む、チョクトウ、クリーク、チカソー、セミノール、チェロキー(いわゆる開化5部族)、約6万人のインディアンを、必要とあらば強制手段によってミシシッピ以西の地に移住させる権限が与えられた。
強制移住の実行
この政策によって、設けられた居留地(インディアン=テリトリー)へ強制移住させらたのは、1840年代までに10万人に及び、移住の途中に病気や事故で多くの犠牲者が出て「涙の旅路」と言われた。また、強制移住の後もインディアンの抵抗は続き、最終的に鎮圧されたのは1880年代であり、それまでに当初約100万人と推定されたインディアン人口は、1890年ごろには約25万人に減少した。資料 インディアン強制移住に関する教書
次の資料は、1833年にジャクソン大統領が議会にインディアン強制移住の報告をしたもので、インディアン移住を人道的立場から行ったことであると強調している。その一部を抜粋する。(引用)連邦政府の現在の政策は、これまではもっと緩慢だった同じ前進的変化の連続に過ぎない。いま東部諸州を構成している地域に居住していたインディアン部族は、絶滅させられたか、あるいはみずから消滅して白人に場所を明け渡した。人と文明の波は西部へ押し寄せつつあり、われわれはいま、インディアンにより占有されている南部と西部の土地を公正な取引で獲得し、合衆国の費用でもって、かれらを、その存在を永らえさせ、ことによれば永遠に続かせるかもしれない別の土地へ移動させることを提案している。いうまでもなく、先祖代々の墓地を離れるのは苦痛であろう。しかしそれが、我々白人の祖先が過去になし、子供たちが現在おこないつつあることとどれだけ違うというのだ。……
政府の力ではいかんともしがたい出来事により、インディアンが古来の居住地でやりきれない思いをしているときに、政府が彼の土地を買い、新しく広大な領地をあてがい、移住費を負担し、新しい居住地でいに年間生活の面倒をみてやることがどうして残酷といえるであろうか。……父祖の墓を後にすることが、わが白人の兄弟や子供以上に彼を苦しめるとでもいうのであろうか。公平に判断して、連邦政府のインディアンに対する政策は気前がよく寛容である。インディアンは州の法律に従ったり州民に混じって住むことを喜ばない。そうしなくともすむように、それともだぶん、彼を絶滅から救うために、連邦政府は親切にも新しく居住地を提供し、移動と定着の全費用を支払うことを提案しているのである。<平野孝訳『史料が語るアメリカ1584-1988』1989 有斐閣 p.82-83>
チェロキー=インディアンの抵抗
インディアン強制移住法に基づき、ジャクソン大統領は国防長官らを派遣して、部族ごとに交渉を開始、移住を強制した。まずチョクトウが同意し、続いてクリーク、セミノール、チカソーの各インディアンが相次いで屈服し、31年暮れから移住が始まった。厳しい冬の集団移住は悲惨の一語につき、食糧も不足する中、氷の上を素足をひきずって幽鬼のような長い列が続いた。チェロキー達はその有様を知って、強く移住に抵抗するようになった。チェロキーは議会を有して法律を制定し、独立国家としての体裁をもつチェロキー=ネーションを成立させており、その大統領(!)に選ばれていた指導者ジョン=ロスはたびたびワシントンに赴いてアメリカ政府と交渉したり、裁判に訴えた。アメリカ世論の中にもインディアンに同情的なものもあったが、1832年の大統領選挙でジャクソンが再選され、インディアンの希望は潰えた。ジャクソン大統領の姿勢は、合衆国の内部に別個のチェロキー=ネーションが存在することは許せないという政治的な面が強くなった。特にチョロキー=ネーションを抱えるジョージア州は強くその排除を連邦政府に迫った。そのような中で、チェロキー=ネーションの中に移住を承諾するかわりに良い条件を引き出そうという条件闘争派が生まれ、分裂した。条件闘争派はジョン=ロスが捕らえられている間に連邦政府と条約を結び、1837年元旦を期して第一陣が移住地目指して出発した。しかしこのグループはインディアンでも豊かな層で、大部分のインディアンは出獄したジョン=ロスに従って、チェロキー=ネーションを離れようとしなかった。1837年に大統領となったヴァン=ビューレンはジャクソンの子分だったのでチェロキーに移住を強く迫り、将軍スコットを派遣した。スコットは軍隊でチェロキーをいったん強制的に収容所に押し込んだ。収容所の惨状を見たジョン=ロスも、移住費用を政府が持つことでついに移住に同意した。
Episode チェロキーランド宝くじ
ジョージア州政府はチェロキー=インディアンを追い出すための一計を案じた。それは白人向けに出て行く予定のチェロキー=インディアンの土地と家屋を景品にしたくじを売り出したのである。当選した白人は、インディアンが出て行くのを待たずにその土地に出かけていって追い立てる。こういういやがらせでインディアンを追い出そうと目論んだのだった。ただし、インディアンの有力者で移住に協力を申し出ているものの土地と家屋は巧妙にあたらないように仕組まれていた。<藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』1974 朝日選書 p.189>涙の旅路
1838~39年、ミシシッピ東岸から排除されたチェロキー=インディアンが、西部に集団移住を強制され、オクラホマの居留地に苦難に満ちた移住を行った。
ジャクソン大統領の1830年に出されたインディアン強制移住法によって、ミシシッピ以東のインディアンの部族の多くはミシシッピ以西への移住を強いられていたが、チェロキー=インディアンは最後まで移住を拒み、独自の社会を維持していた。しかし、1837年に大統領となったヴァン=ビューレンはチェロキーに軍隊を派遣し移住を強く迫った。チェロキー側にも妥協を望む声も起こり、ついに移住を決定した。
チェロキー=インディアンの移住は1838年9月から39年3月にかけて、アメリカ東南部のジョージアから、ミシシッピを越え、西部のオクラホマまでの1300キロの距離を、1万3千人を千人ずつの13集団に分けて行われた。幌馬車が1集団あたり50台、一人に毛布1枚が支給され、途中の食糧調達用に一人あたり66ドルが当てられた。しかし、途中で彼等に食料を売りつけた白人の業者が不当に値段を上げたので、たちまち底をつき、インディアンは寒さと飢えでつぎつぎと病に罹った。80日間という移動期間が決められていたので、病人が出てもとどまることができず、うち捨てられた。この悲惨な旅路で、約4分の1が命を落としたという。ジョン=ロスの妻のクオティーも肺炎で死んだ。
チェロキー=インディアンが泣きながらたどった西への1300キロの道程を「涙の旅路」 The Trail of Tears と呼んだが、原語では Nuna-da-ut-sun'y で「そこで人びとが泣いたふみわけ道」の意味である。旅路と言っても道があったわけではなく、原野を踏み分けていったので、「涙のふみわけ道」ともいう。1839年3月、彼等は目的地オクラホマに着いた。チョクトウ=インディアンの言葉でオクラは「人々」を、ホマは「赤い」を意味する、平原インディアンが生活している場所であった。<藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』1974 朝日選書 p.204-209> → インディアン居留地
裁判は東部地域で起こったレイプ事件について、州法が適用されるか、居留地であることを認め部族か連邦政府が管轄すべきかで争われたもので、州法不適用、つまり居住地であることが賛成5反対4で認められた。賛成に回った判事の一人はトランプ大統領が任命した保守派だったが、司法の独立を守った形となった。
オクラホマ州東部はムスコギ(クリーク)、チェロキー、チカソー、チョクトー、セミノールの5部族の先住民居留地と位置づけられており、180万の人口のうち先住民は15%。ムスコギはジョージアやアラバマから強制移住させられたが、1907年にオクラホマが州に昇格したとき、連邦政府はムスコギの居住地を法的に廃止、約束を反故にした。今回の判決はこのときの連邦政府の措置が先住民との約束に違反する不当なものであったと認めたことになる。ムスコギ・ネーションは「判決は、われわれが確立した自治権と領地を維持することで、祖先の名誉が守られた」と声明を発表、同時に州当局と先住民5部族は治安維持・経済発展などで協力することを共同声明として出した。<日刊赤旗 2020/7/12>
「涙の旅路」から約190年経った2020年でも、インディアンの居留地での権利が脅かされているという実態があったのだ。
チェロキー=インディアンの移住は1838年9月から39年3月にかけて、アメリカ東南部のジョージアから、ミシシッピを越え、西部のオクラホマまでの1300キロの距離を、1万3千人を千人ずつの13集団に分けて行われた。幌馬車が1集団あたり50台、一人に毛布1枚が支給され、途中の食糧調達用に一人あたり66ドルが当てられた。しかし、途中で彼等に食料を売りつけた白人の業者が不当に値段を上げたので、たちまち底をつき、インディアンは寒さと飢えでつぎつぎと病に罹った。80日間という移動期間が決められていたので、病人が出てもとどまることができず、うち捨てられた。この悲惨な旅路で、約4分の1が命を落としたという。ジョン=ロスの妻のクオティーも肺炎で死んだ。
チェロキー=インディアンが泣きながらたどった西への1300キロの道程を「涙の旅路」 The Trail of Tears と呼んだが、原語では Nuna-da-ut-sun'y で「そこで人びとが泣いたふみわけ道」の意味である。旅路と言っても道があったわけではなく、原野を踏み分けていったので、「涙のふみわけ道」ともいう。1839年3月、彼等は目的地オクラホマに着いた。チョクトウ=インディアンの言葉でオクラは「人々」を、ホマは「赤い」を意味する、平原インディアンが生活している場所であった。<藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』1974 朝日選書 p.204-209> → インディアン居留地
NewS オクラホマ州東部地域、先住民居留地と認定
2020年7月9日、アメリカ合衆国連邦最高裁判所は、南部オクラホマ州の東部地域が先住民(インディアン)居留地にあたるとの判決を下した。これによって同地域に住む先住民は一定の自治権が与えられ、州税支払いの義務はなくなる。また、犯罪の起訴も州政府ではなく連邦政府が担当することになる。裁判は東部地域で起こったレイプ事件について、州法が適用されるか、居留地であることを認め部族か連邦政府が管轄すべきかで争われたもので、州法不適用、つまり居住地であることが賛成5反対4で認められた。賛成に回った判事の一人はトランプ大統領が任命した保守派だったが、司法の独立を守った形となった。
オクラホマ州東部はムスコギ(クリーク)、チェロキー、チカソー、チョクトー、セミノールの5部族の先住民居留地と位置づけられており、180万の人口のうち先住民は15%。ムスコギはジョージアやアラバマから強制移住させられたが、1907年にオクラホマが州に昇格したとき、連邦政府はムスコギの居住地を法的に廃止、約束を反故にした。今回の判決はこのときの連邦政府の措置が先住民との約束に違反する不当なものであったと認めたことになる。ムスコギ・ネーションは「判決は、われわれが確立した自治権と領地を維持することで、祖先の名誉が守られた」と声明を発表、同時に州当局と先住民5部族は治安維持・経済発展などで協力することを共同声明として出した。<日刊赤旗 2020/7/12>
「涙の旅路」から約190年経った2020年でも、インディアンの居留地での権利が脅かされているという実態があったのだ。