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ヘルムホルツ

19世紀前半のドイツの科学者。電気、熱力学などを研究。「エネルギー保存の法則」を定式化した。

 ヘルムホルツ Hermann L.F. Helmholtz 1821-94 は、ドイツ(正確にはプロイセン王国)のケーニヒスベルクやベルリンで活躍した物理学、生理学者。1847年(ベルリン三月革命の前年)、熱力学の第1法則とされる「エネルギー保存の法則」を定式化した。
 それより先、1842年に同じくドイツのマイヤーがエネルギー保存の法則について発表していたが、その熱の仕事当量の計算は大まかなものであったので、イギリスのジュールがさらに正確な測定を行った。さらに1847年に、ドイツのヘルムホルツが『力の保存について』という論文で、様々な形態の力(エネルギー)が仕事を行う能力のうえで等価であることを、数学を用いて論じた。1850年、ヘルムホルツによって定式化されたエネルギー保存の法則は、熱力学の第1法則として認められた。

エネルギー保存の法則

 1842年、ドイツのマイヤーは「すでに存在するエネルギーは消滅することはなく、ただ形を変えるだけである」という説を提唱した。5年後の1847年、ヘルムホルツ(このとき26歳、医学の研究者だった)は「力の保存について」という小冊子を発行し、マイヤーとは別に、エネルギー保存を詳細に記述した。一般にこの法則の発見者はヘルムホルツとされている。エネルギー保存の法則(熱力学の第1法則ともいう)は、物理学の最も神聖な法則として、いままでのところ、揺らぐことはない。<スレンドル・ヴァーマ『ゆかいな理科年表』2008 ちくま学芸文庫 p.150>

科学者としての多面的な活躍

 ヘルムホルツが数学的定式化をおこなった「エネルギー保存の法則」(このときはまだエネルギーではなく“力”という用語が用いられていた)は、もっとも基本的な自然法則となり、19世紀後半の電磁気学の理論に体系化につながり、マクスウェルの理論の形成に大きな役割を果たした。ヘルムホルツはまた、1863年に『生理学的基礎としての聴覚教程』を著し、耳が音の高さや音色を聴き分けるメカニズムの理論を展開、物理学と生理学を融合し、それ以外にも光学、流体力学、気象学など幅広い領域で活躍した。1877年にはベルリン大学総長、1888年には物理工学国立研究所初代所長に就任、研究と教育という“二重性”を発揮した。<小山慶太『科学史人物事典』2013 中公新書 p.116>

参考 学者と教師の二重性格

 最晩年のマックス=ウェーバーは、講演録『職業としての学問』(1919年刊)の中で、「学問を以つて自己の天職と考へる青年は彼の使命が一種の二重性格」をもつことを知っていなければならない。言換えれば彼は学者としての性質ばかりでなくまた教師としての性質をもつべきである。これらの性質は決して合致するものではなく、非常に優れた学者でありながら教師としては全く駄目な人がありうるのである。例えばヘルムホルツやランケのような人々はそうであった」と述べている。<マックス・ウェーバー/尾高邦雄訳『職業としての学問』岩波文庫 p.20>
 ヘルムホルツは学者としては優れていたが教師としては駄目だった、というわけだが、これは彼をけなしているのではなく、ウェーバーも言うように「このような人々は何ら特別の例外ではない」のである。ヘルムホルツは優れた学者とされるのは「専門家」として優れていた、ということであり、それに対して彼より早く「エネルギー保存の法則」を提唱したマイヤーは「ディレッタント」(素人)だった。ウェーバーは学問におけるディレッタントによる思いつきも大事だとして、次のようにも述べている。
(引用)ところで、ディレッタントの思い付きは普通専門家のそれに較べて優るとも劣らぬことが多い。事実我々の学問領域での最もよい問題やまたその最も優れた解釈は多くこのディレッタントの思い付きに負っている。ヘルムホルツがロベルト・マイヤーについて語っているように、ディレッタントを専門家から区別するものは、ただディレッタントがこれときまった作業方法を缼き、従って与えられた思い付きについてその効果を判定し、評価し、且つこれを実現する能力を持たないという一事あるのみである。<マックス・ウェーバー/尾高邦雄訳『職業としての学問』岩波文庫 p.26-27>
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小山慶太『科学史人物事典』2013 中公新書 Kindle本

マックス・ウェーバー/尾高邦雄訳
『職業としての学問』
1980 岩波文庫