トルコマンチャーイ条約
数次にわたるロシア=イラン戦争によって、1828年、ロシアがカージャール朝イランに締結させた不平等条約。
ロシアは南下政策の一環としてイラン進出をもくろみ、カージャール朝イランとの間で1804年に第1次イラン=ロシア戦争をしかけて勝利し、1813年にはゴレスターン条約でグルジア(ジョージア)・アゼルバイジャンなどを奪い、カフカス地方に勢力を拡大した。その奪回を目指すカージャール朝との間で1826~28年に第2次イラン=ロシア戦争が起こり、再び勝利したロシアは1828年にこの条約をイランに認めさせた。
領土割譲と不平等条約
このトルコマンチャーイ条約によってイランはアルメニア地方のエレバンなど大部分(東アルメニア)を失い、アラクス川を両国の堺とすることを認めさせた。イラン在住のロシア人についての民事、刑事一切の裁判権をロシアに任せ治外法権(領事裁判権)を認めるという不平等条約であった。イランは同様の不平等条約をイギリスとフランスに対しても認めることになった。また「イランの官憲はロシア政府の同意を得ずにロシア臣民の家屋・店舗・倉庫に立ち入ることはできない」と規定されて、それは英仏に対しても認められたので、これらの外国人商人の活動は保護されることになった。これはイランの開国にほかならない。これらの不平等条約は、1927年に撤廃されるまで、イランの官民を苦しめることになった。<山内昌之『世界の歴史20 近代イスラームの挑戦』中央公論社 p.271-272>