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ガージャール朝(カージャール朝)

1796年、イランを統一したトルコ系民族の王朝。ロシアとイギリスの領土侵略を受ける。その間、バーブ教徒の反乱、タバコボイコットの民衆運動が続発、1905年に立憲革命が起こった。1907年の英露協定で英露両国による勢力分割下に置かれ、1921年のレザーハーンのクーデタで倒された。

 ガージャール Qājār は、従来はカージャールと表記していたが、2024年新課程『世界史探求』と『歴史総合』では、現地ペルシア語の発音に従い、ガージャール朝と表記するようになった(いずれも山川出版社版で確認)。用語集・参考書では変更は進んでいないようなので、当面は併記とします。<2025/3/6>
 1779年にイランで創始され、1796年アフシャール朝に代わってイランを支配したトルコ系王朝。遊牧民=トルクメンのカージャール族アーガー=ムハンマドが建国した。都はテヘラン

トルコ系民族によるイラン統一

 創始者アーガー=ムハンマドはアフシャール朝の人質となっていたが、キャリーム=ハーンの死後、脱走して自立し、イラン北部の部族リーダーの支持を受け、イランの軍事統一に乗りだした。シーラーズのザンド朝宮廷もケルマーンに逃亡したが、その地もアーガー=ムハンマドに征服され、その地の男子2万人とともに目を潰されたという。
 アーガー=ムハンマドは1795年にアゼルバイジャンアルメニアグルジア(現ジョージア)に侵攻して領土を広げ、1794年にザンド朝を、1796年にアフシャール朝を滅ぼし、同年にテヘランで即位し「王の中の王(シャーハンシャー)」を名乗り、ガージャール朝を正式に成立させた。イランはトルコ系の王朝によって統一されたことになる。

イギリス、ロシアの侵出

 ガージャール朝は1925年まで存続するが、トルコ系の王が支配する抑圧的な国家であった。王政は当時強まってきたイギリス、ロシアなどの帝国主義勢力に利権を与え、領土の割譲などで譲歩しつつ、民衆に対しては重税を課した。18世紀末から北方のロシアの南下政策が激しくなり、二度にわたるイラン=ロシア戦争によって大幅に領土を失った。1804年~13年の第1次イラン=ロシア戦争ではグルジアとアゼルバイジャン北部領有を認め(ゴレスターン条約)、26~28年の第2次イラン=ロシア戦争では1828年トルコマンチャーイ条約を結んでロシアに北アルメニアを割譲した。まもなくアゼルバイジャンのバクーの油田開発が始まり、有数の石油産地としてにわかに重要度を増した。これに対してアフガニスタン、インドでの権益を守ろうとするイギリスもイランに進出し、1840年、イギリス=イラン通商条約を締結した。

圧政に対する民衆の反抗

 イラン人民衆の中ではサファヴィー朝以来のシーア派ウラマー(イスラーム法学者)の社会的権威は依然として強かったので、王政とウラマーは次第に対立するようになった。1848年7月~52年にはシーア派の分派のバーブ教徒の反乱が起こったが、残虐な弾圧で鎮圧された。イランはガージャール朝のもとで列強の半植民地状態におかれ、帝国主義と結ぶガージャール朝への不満は、1891年タバコ=ボイコット運動となって爆発した。

立憲革命

 さらに日露戦争でロシアが敗れたことを受けて1905年立憲革命が起こり、議会の開設と憲法の制定が行われた。1907年英露協商は、新興勢力であるドイツが西アジアに進出したことから、ロシアとイギリスによるイラン分割の協定であり、北部のロシア、東南部のイギリスの利権を相互に認めるものであった。

レザー=ハーンのクーデタ

 そのころイランで石油の採掘が始まると、イギリスはイラン支配を強めようと画策した。第一次世界大戦中にはドイツと結んだオスマン帝国軍がイランにも侵攻、イギリス軍がそれを撃退した。また大戦中にロシア革命が起こり、ロシアが後退したのでイギリスはイランに対する支配の確立の好機と捉え、1919年にイラン=イギリス協定を締結して外交や内政への幅広い介入を可能にした。しかし、反英感情とともに地方でのテヘランのガージャール朝政府に対する分離の動きも起こり、政治は不安定な状態に陥った。
 1921年、ガージャール朝のコサック旅団長だったレザー=ハーンはイギリスの支援を背景としてクーデタを行って実権を握り、軍の力による強力な政権の樹立をめざし、1923年には首相となり、最終的には1925年10月に国民議会でガージャール朝廃止法案を可決させ、1925年12月16日に自らレザー=シャー=パフラヴィーとして正式に即位し、パフレヴィー朝を成立させた。