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カージャール朝

1796年、イランを統一したトルコ系民族の王朝。ロシアとイギリスの領土侵略を受ける。その間、バーブ教との反乱、タバコボイコットの民衆運動が続発、1905年に立憲革命が起こった。1907年の英露協定で英露両国による勢力分割化に置かれ、1921年のレザーハーンのクーデタで倒された。

 1779年にイランで創始され、1796年アフシャール朝に代わってイランを支配したトルコ系王朝。遊牧民=トルクメンのカージャール族アーガー=ムハンマドが建国した。都はテヘラン

トルコ系民族によるイラン統一

 創始者アーガー=ムハンマドはアフシャール朝の人質となっていたが、キャリーム=ハーンの死後、脱走して自立し、イラン北部の部族リーダーの支持を受け、イランの軍事統一に乗りだした。シーラーズのザンド朝宮廷もケルマーンに逃亡したが、その地もアーガー=ムハンマドに征服され、その地の男子2万人とともに目を潰されたという。
 アーガー=ムハンマドは1795年にアゼルバイジャンアルメニアグルジア(現ジョージア)に侵攻して領土を広げ、1794年にザンド朝を、1796年にアフシャール朝を滅ぼし、同年にテヘランで即位し「王の中の王(シャーハンシャー)」を名乗り、カージャール朝を正式に成立させた。イランはトルコ系の王朝によって統一されたことになる。

イギリス、ロシアの侵出

 カージャール朝は1925年まで存続するが、トルコ系の王が支配する抑圧的な国家であった。王政は当時強まってきたイギリス、ロシアなどの帝国主義勢力に利権を与え、領土の割譲などで譲歩しつつ、民衆に対しては重税を課した。18世紀末から北方のロシアの南下政策が激しくなり、二度にわたるイラン=ロシア戦争によて大幅に領土を失った。1804年~13年の第1次イラン=ロシア戦争ではグルジアとアゼルバイジャン北部領有を認め(ゴレスターン条約)、26~28年の第2次イラン=ロシア戦争では1828年トルコマンチャーイ条約を結んでロシアに北アルメニアを割譲した。まもなくアゼルバイジャンのバクーの油田開発が始まり、有数の石油産地としてにわかに重要度を増した。これに対してアフガニスタン、インドでの権益を守ろうとするイギリスもイランに進出し、1840年、イギリス=イラン通商条約を締結した。

圧政に対する民衆の反抗

 イラン人民衆の中ではサファヴィー朝以来のシーア派ウラマー(イスラーム法学者)の社会的権威は依然として強かったので、王政とウラマーは次第に対立するようになった。1848年7月~52年にはシーア派の分派のバーブ教徒の反乱が起こったが、残虐な弾圧で鎮圧された。イランはカージャール朝のもとで列強の反植民地状態におかれ、帝国主義と結ぶカージャール朝への不満は、19世紀末にタバコ=ボイコット運動となって爆発した。

立憲革命

 さらに日露戦争でロシアが敗れたことを受けて1905年立憲革命が起こり、議会の開設と憲法の制定が行われた。1907年英露協商は、新興勢力であるドイツが西アジアに進出したことから、ロシアとイギリスによるイラン分割の協定であり、北部のロシア、東南部のイギリスの利権を相互に認めるものであった。

イギリスの進出

 そのころイランで石油の採掘が始まると、イギリスはイラン支配を強めようと画策した。1921年、カージャール朝のコサック旅団長だったレザー=ハーンがクーデターを行ってカージャール朝を倒し、1925年にはカージャール朝に代わってパフレヴィー朝を成立させた。
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