(1)アルメニア
黒海とカスピ海の間の南カフカス地方の中央に位置する。アケメネス朝ペルシアの支配の後、独立した王国となったが、ローマとパルティア、ササン朝との長い抗争の地となった。4世紀はじめに世界で最初にキリスト教を国教とし、アルメニア教会が成立した。しかし7世紀にイスラーム化し、近代にはトルコ、ロシア間の紛争地帯となる。
歴史上のアルメニアは、カフカス地方の現在のアルメニア共和国よりも広大な範囲を含んでおり、トルコ東部のアルメニア高原一帯から、アゼルバイジャンにかけての広範な地域をさす。アルメニア高原はチグリス川、ユーフラテス川の源流となる山岳地帯で、最高峰はアララト山(標高5205m)。黒海、カスピ海、地中海に近く、交易がさかんで、またオリエント文明とギリシア文明の接点でもあった。
右の地図は、3世紀ごろ、ローマ帝国とパルティアの間にあって一定の独立を保ち、一時は保護国、属州となった古代アルメニアのおおよその範囲を示す(黄色の範囲)。現在のアルメニア共和国(色の濃い範囲)との領域の広さとの違いに注意しよう。
アルメニア人の故地は、アララト山南西のヴァン湖周辺と考えられているが、現在ではその地はトルコ領となっている。
→ 現在のアルメニア共和国
ローマとパルティア、ササン朝の抗争 アルメニアが世界史上、注目されるのは、前1世紀にローマの勢力が東方に伸張して接触するようになってからである。前64年に小アジアのポントス王をミトリダテス戦争で滅ぼしたローマの将軍ポンペイウスはアルメニアに迫り、保護国化した。さらにクラッススはイランのパルティアと戦って戦死したが、アルメニアはローマに協力した。前35~前34年にはローマのアントニウス軍もパルティアと戦い、アルメニアに侵攻した。ローマ帝国になると、その領土が最大となったトラヤヌス帝の時にその属州となった。ハドリアヌス帝の時にはローマの宗主権を認めて保護国となった。しかし、パルティアが再びアルメニアに勢力を伸ばしたため、マルクス=アウレリウス=アントニヌスが出兵し、パルティアを破った。
その後、アルメニアにはパルティアの王族の一人が独自の政権を建てたが、237年、ササン朝ペルシアのアルデシール1世によって制圧され、その支配下にはいった。しかし東方拡大をはかるローマ帝国と、それを阻止しようとするササン朝の間の抗争はアルメニアを舞台に続き、ローマの後継国家ビザンツ帝国とササン朝の抗争も断続的に7世紀まで続いた。
アルメニア教会 キリスト教は小アジアとその東のアルメニアにも早くから広がっていた。ローマ帝国領内では禁止されていたが、アルメニアでは301年、アルメニア教会が成立し、世界で最初にキリスト教が公認された(国教とした)。このキリスト教はイエスの単性説をとっており、451年のカルケドン公会議では異端とされた。その後アルメニア教会はアルメニア人の拡散と共にひろがり、現在も各地にローマ教会とは異なる単性説の信仰を依然として維持している。
アルメニアのトルコ化 7世紀、アラブ人の征服を受けてイスラーム教が及ぶとともに、トルコ人、イラン人など周辺諸民族の支配を受け、特に10世紀以降はトルコ人やクルド人のイスラーム地方政権が興亡する中、次第にアルメニア人のトルコ化が進んだ。10世紀末にはビザンツ帝国の東進、セルジューク朝の侵攻で多くのアルメニア人は故地を離れた。
ユーフラテス川上流のアルメニア人は、1098年に十字軍国家のエデッサ伯国の建国に協力したが、エデッサ伯国は1244年にトルコ人ザンギーに奪回された。この時、多数のアルメニア人が虐殺されたという。
アナトリア(小アジア)南東のキリキア地方に移住したアルメニア人は、キリキア・アルメニア王国を作ったが、マムルーク朝に滅ぼされた。
トルコとイランの抗争 その後、16世紀には、小アジアのオスマン帝国とイランのサファヴィー朝のあいだに位置したアルメニア高原は両国がその覇権を巡って争う場となり、この両国で分割されることになった。東のサファヴィー朝領は18世紀末にカージャール朝イランの領土となった。西のオスマン帝国領、東のカージャール朝領は、19世紀になると北方からロシアの脅威を受けることとなる。
ロシアの南下 19世紀から北方のロシアの南下政策が激しくなると、カフカス北側からの進出したロシア勢力は第2次のイラン=ロシア戦争の結果、カージャール朝イランは1828年のトルコマンチャーイ条約によって大部分をロシアに割譲された。このとき、カフカス地方の一部アルメニアのロシアへの割譲も認めた。それ以後アルメニア東部はロシアの支配下に入ることとなった。第一次世界大戦中の1915年にはオスマン帝国軍によるアルメニア虐殺事件がおきている。
ソ連邦編入から独立へ 第一次世界大戦末期、ロシア革命が勃発してロシア帝国が消滅、オスマン帝国が衰退するという事態の中で1918年、アルメニア共和国樹立が宣言されたが、まもなくソヴィエト連邦(ソ連)に組み込まれる。現在のアルメニア共和国は1991年、ソ連の解体によって成立した。(下掲)
アルメニア人の姓名の多くは語尾がアンで終わることが特徴で、例えばロシアの作曲家ハチャトリアン、アメリカの作家ウィリアム=サローヤン、ドイツの指揮者ヘルベルト=フォン=カラヤンなどはいずれもアルメニア系である。
アルメニア人は建築家として紀元前から著名でアーチ建築様式はその独自の技術である。また商人として各地で活躍した。特にイランのサファヴィー朝では、シャー=アッバースアッバース1世のもとでその堅固な中央官僚制度を支えたのはイスラーム教に改宗したジョージア人とアルメニア人であった。アルメニア人は新首都イスファハーンでも新ジョルファという町を形成し、シャーの委託を受けて中国・イラン・ヨーロッパ諸国を結ぶ絹交易を独占し流通経済に大きな役割を果たした。サファヴィー朝の保護を受けたアルメニア商人は絹交易の独占権やキャビアなどの商品で利益を上げ17~18世紀に活躍したが、18世紀末にサファヴィー朝が弱体化してその保護を失うと各地へ散ってゆき、最富裕層はインドに移住してイギリス東インド会社と関係をもつようになった。
アルメニア人はイスラーム圏ではキリスト教徒、つまり啓典の民として扱われたので、ジズヤなどの税を負担することを条件に、ジンミー(ズィンミー)として生命・財産の安全と共に信仰と自治を認められた。いわゆるマイノリティであるが、各地にあったアルメニア人居住区を拠点として、広範な交易活動に従事し、その利益はイスラーム国家に税として納められた。彼らは民族国家を形成するとはなかったが、このようにマイノリティとして存在を続けることができた。それはユダヤ人と共通する特質であり、「交易離散共同体」として捉えることができる。<田村愛理『世界史のなかのマイノリティ』世界史リブレット53 1997 山川出版社 p.39-49>
この事件は現在でも犠牲者の数や詳細がはっきりせず、責任問題も棚上げになっており、未解決となっているが、次第にその実態が明らかになりつつある。第一次世界大戦でドイツ・オーストリアと共に同盟側に加わったオスマン帝国が、ロシア軍の南下を恐れ、国境地帯のアルメニア人を数次にわたって強制退去させようとした。抵抗するアルメニア人に対し首都イスタンブルで1915年4月24日に虐殺が始まり、アルメニア人の知識人らが連行され、1923年までにわたって、主に帝国東部でアルメニア人の大量殺人や追放が相次いだ。現在、アルメニア政府は犠牲者150万以上にのぼる、民族根絶を狙った「ジェノサイド(集団殺害)」であると主張している。犠牲者の数は約100万と想定されているが、研究者の間では「数十万人規模」との推定もある。
「ジェノサイド条約」は、「国民的、民族的、人種的または宗教的な集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われる行為」と定義し、ナチス・ドイツによるユダヤ人殺害などが典型とされている。これに対してトルコは、エルドアン大統領が「アルメニア人虐殺は根拠がない」と演説、聴衆の拍手をあびている。
世界的に在外アルメニア人がジェノサイドと認めるよう運動しており、ロシア、フランス、カナダなど21ヵ国が認めている。ロシアにはアルメニア系が100万人以上にのぼり、外相のラブロフなど有力者もいる。フランスでもシャンソン歌手シャルル=アズナブールを筆頭にアルメニア系が確固たる地位を築いている。アメリカではオバマ大統領が「ジェノサイド」と認める発言をしたが、公式にはNATO加盟問題などで対トルコ関係の悪化を懸念している。
このように国際関係の絡みもあってアルメニア人虐殺問題はまだトルコ・アルメニア間で解決を見ていないが、最近になってエルドアン大統領もこの事件は「われわれの共通の痛み」と表現したり、第一次世界大戦でアルメニア人がロシア側に参戦したためやむをえず殺害したケースもあったと、一部殺害を認める動きも出ている。アルメニア側にもトルコとの経済協力が不可欠であるため、余り強気には出れないという事情もある。<以上、朝日新聞 2015年4月28日朝刊 10面 記事による>
アルメニア系在米NPOのまとめでは、世界30カ国がジェノサイドを認定しており、アメリカ議会も2019年に決議案を可決している。歴代大統領ではレーガンが1981年にジェノサイドと認定したが、それ以外はトルコとの関係に配慮して踏み込んではいなかった。
右の地図は、3世紀ごろ、ローマ帝国とパルティアの間にあって一定の独立を保ち、一時は保護国、属州となった古代アルメニアのおおよその範囲を示す(黄色の範囲)。現在のアルメニア共和国(色の濃い範囲)との領域の広さとの違いに注意しよう。
アルメニア人の故地は、アララト山南西のヴァン湖周辺と考えられているが、現在ではその地はトルコ領となっている。
→ 現在のアルメニア共和国
アルメニアの歴史
かつてこの地に広く分布し活動したアルメニア人はインド=ヨーロッパ語系で、東西の通商路を押さえ、国家を建設し、繁栄していた。旧約聖書にアララト王国として登場するウラルトゥは、紀元前9~前6世紀ごろの最初のアルメニア人国家であったと思われる。前6世紀中頃、イラン高原に興ったアケメネス朝ペルシアに征服され、サトラップが置かれて州の一つとされた。ペルシア帝国が滅亡すると、各地に成立したヘレニズム諸国の一つとしてアルメニア王国が成立し、黒海からカスピ海にまたがる大国家を形成していたこともあった。しかし古代においては、周辺の大国の干渉も続き、その歴史は断続的であった。ローマとパルティア、ササン朝の抗争 アルメニアが世界史上、注目されるのは、前1世紀にローマの勢力が東方に伸張して接触するようになってからである。前64年に小アジアのポントス王をミトリダテス戦争で滅ぼしたローマの将軍ポンペイウスはアルメニアに迫り、保護国化した。さらにクラッススはイランのパルティアと戦って戦死したが、アルメニアはローマに協力した。前35~前34年にはローマのアントニウス軍もパルティアと戦い、アルメニアに侵攻した。ローマ帝国になると、その領土が最大となったトラヤヌス帝の時にその属州となった。ハドリアヌス帝の時にはローマの宗主権を認めて保護国となった。しかし、パルティアが再びアルメニアに勢力を伸ばしたため、マルクス=アウレリウス=アントニヌスが出兵し、パルティアを破った。
その後、アルメニアにはパルティアの王族の一人が独自の政権を建てたが、237年、ササン朝ペルシアのアルデシール1世によって制圧され、その支配下にはいった。しかし東方拡大をはかるローマ帝国と、それを阻止しようとするササン朝の間の抗争はアルメニアを舞台に続き、ローマの後継国家ビザンツ帝国とササン朝の抗争も断続的に7世紀まで続いた。
アルメニア教会 キリスト教は小アジアとその東のアルメニアにも早くから広がっていた。ローマ帝国領内では禁止されていたが、アルメニアでは301年、アルメニア教会が成立し、世界で最初にキリスト教が公認された(国教とした)。このキリスト教はイエスの単性説をとっており、451年のカルケドン公会議では異端とされた。その後アルメニア教会はアルメニア人の拡散と共にひろがり、現在も各地にローマ教会とは異なる単性説の信仰を依然として維持している。
アルメニアのトルコ化 7世紀、アラブ人の征服を受けてイスラーム教が及ぶとともに、トルコ人、イラン人など周辺諸民族の支配を受け、特に10世紀以降はトルコ人やクルド人のイスラーム地方政権が興亡する中、次第にアルメニア人のトルコ化が進んだ。10世紀末にはビザンツ帝国の東進、セルジューク朝の侵攻で多くのアルメニア人は故地を離れた。
ユーフラテス川上流のアルメニア人は、1098年に十字軍国家のエデッサ伯国の建国に協力したが、エデッサ伯国は1244年にトルコ人ザンギーに奪回された。この時、多数のアルメニア人が虐殺されたという。
アナトリア(小アジア)南東のキリキア地方に移住したアルメニア人は、キリキア・アルメニア王国を作ったが、マムルーク朝に滅ぼされた。
トルコとイランの抗争 その後、16世紀には、小アジアのオスマン帝国とイランのサファヴィー朝のあいだに位置したアルメニア高原は両国がその覇権を巡って争う場となり、この両国で分割されることになった。東のサファヴィー朝領は18世紀末にカージャール朝イランの領土となった。西のオスマン帝国領、東のカージャール朝領は、19世紀になると北方からロシアの脅威を受けることとなる。
ロシアの南下 19世紀から北方のロシアの南下政策が激しくなると、カフカス北側からの進出したロシア勢力は第2次のイラン=ロシア戦争の結果、カージャール朝イランは1828年のトルコマンチャーイ条約によって大部分をロシアに割譲された。このとき、カフカス地方の一部アルメニアのロシアへの割譲も認めた。それ以後アルメニア東部はロシアの支配下に入ることとなった。第一次世界大戦中の1915年にはオスマン帝国軍によるアルメニア虐殺事件がおきている。
ソ連邦編入から独立へ 第一次世界大戦末期、ロシア革命が勃発してロシア帝国が消滅、オスマン帝国が衰退するという事態の中で1918年、アルメニア共和国樹立が宣言されたが、まもなくソヴィエト連邦(ソ連)に組み込まれる。現在のアルメニア共和国は1991年、ソ連の解体によって成立した。(下掲)
アルメニア人の世界への拡散
アルメニア人の自分たちの故地における国家は断続的であり、一貫して存続することなく、その多くはアルメニアの地から逃れ、世界中に離散していった。しかし彼らは、アルメニア語とアルメニア教会を文化的核として集団意識を保持しつづけた。アルメニア語は一言語一語群をなし、独自のアルファベットをもつ。アルメニア教会もまた、キリスト教単性論の東方教会として、独自の地位と教会組織をもっている。彼らは、「交易離散共同体」として世界各地の都市にアルメニア人居住区をもち、現在、おそらく600万人ほどの人口があるが、いちばん多いのはアルメニア共和国を除いては、アメリカであろう。アルメニア人によるカリフォルニアのブドウ産業の開発は有名である。東部のボストンにも大きな居住区があり、ヨーロッパ各地やアジア各地にも居住区があり、アルメニア教会が作られている。アルメニア人の姓名の多くは語尾がアンで終わることが特徴で、例えばロシアの作曲家ハチャトリアン、アメリカの作家ウィリアム=サローヤン、ドイツの指揮者ヘルベルト=フォン=カラヤンなどはいずれもアルメニア系である。
アルメニア人は建築家として紀元前から著名でアーチ建築様式はその独自の技術である。また商人として各地で活躍した。特にイランのサファヴィー朝では、シャー=アッバースアッバース1世のもとでその堅固な中央官僚制度を支えたのはイスラーム教に改宗したジョージア人とアルメニア人であった。アルメニア人は新首都イスファハーンでも新ジョルファという町を形成し、シャーの委託を受けて中国・イラン・ヨーロッパ諸国を結ぶ絹交易を独占し流通経済に大きな役割を果たした。サファヴィー朝の保護を受けたアルメニア商人は絹交易の独占権やキャビアなどの商品で利益を上げ17~18世紀に活躍したが、18世紀末にサファヴィー朝が弱体化してその保護を失うと各地へ散ってゆき、最富裕層はインドに移住してイギリス東インド会社と関係をもつようになった。
アルメニア人はイスラーム圏ではキリスト教徒、つまり啓典の民として扱われたので、ジズヤなどの税を負担することを条件に、ジンミー(ズィンミー)として生命・財産の安全と共に信仰と自治を認められた。いわゆるマイノリティであるが、各地にあったアルメニア人居住区を拠点として、広範な交易活動に従事し、その利益はイスラーム国家に税として納められた。彼らは民族国家を形成するとはなかったが、このようにマイノリティとして存在を続けることができた。それはユダヤ人と共通する特質であり、「交易離散共同体」として捉えることができる。<田村愛理『世界史のなかのマイノリティ』世界史リブレット53 1997 山川出版社 p.39-49>
アルメニア人虐殺事件
オスマン帝国内にも多数のアルメニア人が残ったが、彼らはキリスト教徒であったため、迫害され、第一次世界大戦の最中の1915年4月24日からオスマン帝国のもとでのアルメニア人虐殺事件が始まった。オスマン帝国は第一次世界大戦に参戦すると、青年トルコ革命政権を指導していたエンヴェル=パシャは、パン=トルコ主義を唱えて、オスマン帝国の一体化を強化しようとした。それに対してアルメニア人やギリシア人など、トルコ人以外の民族の反発が強まったことがその背景であった。この事件は現在でも犠牲者の数や詳細がはっきりせず、責任問題も棚上げになっており、未解決となっているが、次第にその実態が明らかになりつつある。第一次世界大戦でドイツ・オーストリアと共に同盟側に加わったオスマン帝国が、ロシア軍の南下を恐れ、国境地帯のアルメニア人を数次にわたって強制退去させようとした。抵抗するアルメニア人に対し首都イスタンブルで1915年4月24日に虐殺が始まり、アルメニア人の知識人らが連行され、1923年までにわたって、主に帝国東部でアルメニア人の大量殺人や追放が相次いだ。現在、アルメニア政府は犠牲者150万以上にのぼる、民族根絶を狙った「ジェノサイド(集団殺害)」であると主張している。犠牲者の数は約100万と想定されているが、研究者の間では「数十万人規模」との推定もある。
NewS 集団殺害か100年後の論争
オスマン帝国の統治下で起きたアルメニア人迫害から、100年目に当たる2015年4月24日、アルメニアの首都エレバンで追悼式典が行われ、サルキシャン大統領は「“ジェノサイド”の罪に対する揺るぎない国際的な闘争は、われわれの外交政策の一部であり続ける」と演説し、トルコなどに「ジェノサイド」認定を求めた。式典にはフランスのオランド大統領、ロシアのプーチン大統領も出席した。「ジェノサイド条約」は、「国民的、民族的、人種的または宗教的な集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われる行為」と定義し、ナチス・ドイツによるユダヤ人殺害などが典型とされている。これに対してトルコは、エルドアン大統領が「アルメニア人虐殺は根拠がない」と演説、聴衆の拍手をあびている。
世界的に在外アルメニア人がジェノサイドと認めるよう運動しており、ロシア、フランス、カナダなど21ヵ国が認めている。ロシアにはアルメニア系が100万人以上にのぼり、外相のラブロフなど有力者もいる。フランスでもシャンソン歌手シャルル=アズナブールを筆頭にアルメニア系が確固たる地位を築いている。アメリカではオバマ大統領が「ジェノサイド」と認める発言をしたが、公式にはNATO加盟問題などで対トルコ関係の悪化を懸念している。
このように国際関係の絡みもあってアルメニア人虐殺問題はまだトルコ・アルメニア間で解決を見ていないが、最近になってエルドアン大統領もこの事件は「われわれの共通の痛み」と表現したり、第一次世界大戦でアルメニア人がロシア側に参戦したためやむをえず殺害したケースもあったと、一部殺害を認める動きも出ている。アルメニア側にもトルコとの経済協力が不可欠であるため、余り強気には出れないという事情もある。<以上、朝日新聞 2015年4月28日朝刊 10面 記事による>
NewS バイデン大統領 ジェノサイド認定
アメリカのバイデン大統領は、2021年4月24日、オスマン帝国末期に起きたアルメニア人迫害を「ジェノサイド(集団虐殺)」と認める声明を発表した。歴代大統領は明言を避けてきたが、追悼記念日に当たる4月24日に合わせた声明で、自身の掲げる人権重視の外交方針を示す象徴的な意味合いが強いとみられる。事前にトルコのエルドアン大統領とも電話会談で伝えており、エルドアン大統領も公式には「ジェノサイドはウソ」と反論するが、それ以上アメリカとの対立はその経済制裁を避けたいので、反発は限定的と見られている。アルメニア系在米NPOのまとめでは、世界30カ国がジェノサイドを認定しており、アメリカ議会も2019年に決議案を可決している。歴代大統領ではレーガンが1981年にジェノサイドと認定したが、それ以外はトルコとの関係に配慮して踏み込んではいなかった。
(2)アルメニア共和国
コーカサス南部の小国で1922年からソ連邦を構成する一国となったが、1991年に分離。トルコなど周辺国との領土・民族問題をかかえ、特に近年は東隣のアゼルバイジャンとの間でナゴルノ=カラバフをめぐる対立が続いている。
アルメニア GoogleMap
アルメニア語はインド=ヨーロッパ語系で、宗教はキリスト教の東方教会系のアルメニア教会。アルメニア人は、周辺のトルコやアゼルバイジャンのイスラーム教スンナ派、イランのイスラーム教シーア派の中にあって独自の言語と宗教(アルメニア教会)を持っているため、長い民族的な対立が続いてきた。
ソ連邦を構成
ロシア革命が起きると1918年にグルジア、アゼルバイジャンと共にザカフカース連邦共和国として独立した。しかし、すぐに分離してアルメニア民主共和国となった。1922年にはコーカサス連邦の一つとしてソ連邦の一員となり、1936年にスターリン憲法の制定によってコーカサス連邦は分離し、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニアはそれぞれ一つの共和国としてソ連邦を構成した。ソ連から分離独立
アルメニア国旗
ナゴルノ=カラバフ紛争
アルメニア共和国は、東側に隣接するアゼルバイジャンとの間で、ナゴルノ=カラバフ帰属問題という領土・民族問題を抱え、1988年~1994年にはナゴルノ=カラバフ紛争が続いた。アルメニアの南にはアゼルバイジャンの飛地があり、対立を複雑にしている。2020年10月になってアゼルバイジャンとの紛争が再燃、双方が相手国を空爆し多くの犠牲が出た。欧州安全保障協力機構(OSCE)の調停、ロシア、アメリカの仲介などで一旦は停戦が実現した。 → カフカス地方の紛争アゼルバイジャンとの衝突は2020年11月10日に停戦が発効したが、結果としてアルメニアがそれまで実効支配していたナゴルノ=カラバフとの間の地域を返還することとなった、再び分離されたことから、国内に強い不満がのこり、停戦に合意したパシニャン首相に対する反発が強まっている。野党側は首相の即時退陣を要求、首相は議会選挙を前倒しして政権を維持しようとしているが、軍も政権に反旗をひるがえす状況となっており、首都エレバンは双方の支持者がデモを行い、緊迫した。<2021/3/3 各社新聞ニュース>