同治帝
1860年代の清朝の皇帝。漢人官僚が主導した近代化政策である同治の中興が推進されたが、実権は母親の西太后がにぎっていた。
同治帝は、在位1861~74年の清朝の第10代皇帝。父は咸豊帝で母が西太后であった。この時期は、アロー戦争の敗北による北京条約の締結後、太平天国が鎮定され、捻軍の反乱も収まったので、比較的安定が続いた時期であったので同治の中興といわれている。清朝の政治は、太平天国や捻軍の鎮圧に功績のあった漢人官僚で軍事指導者の李鴻章らが力を付け、彼らが主導する形で、産業や軍事の近代化を目指す洋務運動が展開された。その一方で、宮廷の実権を握った西太后の周辺には満洲人官僚による保守派が形成され、両派の抗争が続いていた。
同治帝は成長するにつれて、実母の西太后より、東太后を慕うようになったという。次第に意志の疎通を欠くようになった母子は、皇后の人選をめぐっても対立し、同治帝は西太后の意に沿わない女性を皇后にした。17歳になった1873年には、親政を行うことになったが、翌1874年に急死した。公には天然痘の予後が悪かったためとされたが、西太后による暗殺のうわさが絶えない。同治帝の皇后も間もなく急死するがこれも同様な疑いがかけられている。同治帝には子はなかったので、咸豊帝の弟醇親王と西太后の妹の間に生まれた光緒帝がわずか4歳で即位した。
咸豊帝―同治帝―光緒帝という帝位継承の異常さは、清朝の(というだけでなく、始皇帝以来の中国の皇帝政治の)終わりを予感させるものとなった。
6歳で即位し、18歳で死去
1860年10月、アロー戦争の戦禍が及び、イギリス・フランス軍が北京に迫ると、咸豊帝は難を避け北方の熱河に避難した。翌1861年、結核を病んでいた咸豊帝が熱河で死去すると、ただ一人の子がわずか6歳で皇帝となることになった。その母で懿貴妃は咸豊帝の側室であったが権力欲が強く、新帝を擁して北京に戻り、前帝の側近を退けて、咸豊帝の皇后を東太后、自らを西太后とし、二人の太后による「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」(簾の中から政治を行うこと)を開始した。二人の太后が同時に収めるという意味で新年号は「同治」とされた。同治とはいえ、実権は西太后が握る、クーデタが成功したのだった。それ以後、わずか6歳の同治帝の下で、母の西太后が実権をふるい、叔父の恭親王奕訢(えききん)がそれを支えるという統治が始まった。これから同治帝が死去する1874年までは、太平天国や捻軍の反乱も鎮圧され、比較的平穏な時代が続いたので同治の中興と言われるが、幼少の同治帝が政治に関わることはなかった。同治帝は成長するにつれて、実母の西太后より、東太后を慕うようになったという。次第に意志の疎通を欠くようになった母子は、皇后の人選をめぐっても対立し、同治帝は西太后の意に沿わない女性を皇后にした。17歳になった1873年には、親政を行うことになったが、翌1874年に急死した。公には天然痘の予後が悪かったためとされたが、西太后による暗殺のうわさが絶えない。同治帝の皇后も間もなく急死するがこれも同様な疑いがかけられている。同治帝には子はなかったので、咸豊帝の弟醇親王と西太后の妹の間に生まれた光緒帝がわずか4歳で即位した。
咸豊帝―同治帝―光緒帝という帝位継承の異常さは、清朝の(というだけでなく、始皇帝以来の中国の皇帝政治の)終わりを予感させるものとなった。