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総理各国事務衙門

天津条約が批准されたことにより、1861年、清朝ではじめて、諸外国との外交を管轄する官庁として発足した。これによって中国は朝貢関係という従来の外交姿勢から、諸外国との対等な外交原則に転じた。義和団事変後の北京議定書により、外務部に交替する。

 1861年1月、清朝に新たに設けられた、外国との交渉を管轄する役所。衙門(がもん)とは役所のこと。それまで、華夷思想に立つ中国の歴代王朝では、外国は一段劣る夷狄や野蛮なものと考えられていたので、主権国家間で対等に交渉する「外交」という観念がなかった。貿易は、冊封関係にある国との朝貢貿易も、それ以外の外国との互市貿易も、皇帝による恩恵として行われるという建前であった。

アロー戦争の結果

 ところが、アロー戦争の結果として、1860年に天津条約が批准され、外国公使が北京に駐在することとなり、それに対応する官庁を設ける必要が出てきた。そのために翌年設けられたのが、総理各国事務衙門である。略称は総理衙門、または総署、訳署ともいわれた。
 初代の首班は恭親王とし、総理衙門大臣として軍機大臣(軍機処)とその他の中央官庁高官が任命され、合議制で業務に当たった。次第に外交事務以外にも管掌する範囲が広がり、海関(関税事務)、海軍事務を統括し、電信、鉄道、鉱山なども管掌する大きな権力を持つようになった。

義和団事変で外務部へ

 しかし、帝国主義列強の外交圧力が高まる中、総理衙門は充分が対応ができす、1884年の清仏戦争、1894年の日清戦争という外交上の不手際が続いた。さらに1898年には列強による中国分割が行われ、反発した民衆の中から起こった義和団事件で北京の外国公使館が襲撃されるという事態を招いた。その結果清朝政府機構の改編の声も強まり、翌1901年締結された北京議定書(辛丑和約)で、総理衙門は外務部と改称された。
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