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丁若鏞

朝鮮王朝後期の実学思想家。儒教的学問を行きづまりを打破し、西欧思想・キリスト教などの西学を取り入れた実用の学を志したが、1801年のキリスト教弾圧に際し入獄した。

丁若鏞

丁若鏞

 丁若鏞、ていじゃくよう、チョンヤギョン、茶山(タサン)(1762-1836)は朝鮮王朝後期の実学思想を集大成したとされる学者。1789年(つまりフランス革命が起こった年)に科挙の文科に合格し官僚となり、官途に就いた。早くから兄の影響を受けてキリスト教(カトリック、天主教)を知り、そこからヨーロッパの科学思想にも通じるようになった。当時、改革に努めていた正祖に登用され、水原華城の建設技師として技量を発揮した。また、天主教を通して因習の打破を誰にでもわかるようにハングルによって教理書を書いた。

キリスト教弾圧により流罪となる

 しかし、正祖が急死し、保守派の党派である老論(党争の中で常に優勢だった保守強硬派)が復活すると、朝鮮王朝はキリスト教厳禁に一転して、1801年の天主教弾圧(辛酉教獄)が起こった。長兄の丁若鐘は死刑(杖で撲り殺される杖殺)となり、次兄の丁若銓は黒山島に流刑となり、彼は全羅道康津に配流となった。丁若鏞は康津での18年間の配流生活で500巻もの著作を行い、経世実学の思想を大成した。配流生活を終え、1818年に故郷に帰り、1836年まで生きた。  → <丁若鏞については、宮嶋博史『明朝と李朝の時代』世界の歴史 12 1998 中央公論新社 p.354-356 / 金重明『物語朝鮮王朝の滅亡』2013 岩波新書 p.41-58,71-75 などのくわしい>
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書籍案内

岸本美緒・宮嶋博史
『明清と李朝の時代』
世界の歴史 22
1998年 中公文庫

金重明
『物語朝鮮王朝の滅亡』
2013 岩波新書