丁若鏞
朝鮮王朝後期の実学思想家。儒教的学問を行きづまりを打破し、西欧思想・キリスト教などの西学を取り入れた実用の学を志したが、1801年のキリスト教弾圧に際し入獄した。
丁若鏞
キリスト教弾圧により流罪となる
しかし、正祖が急死し、保守派の党派である老論(党争の中で常に優勢だった保守強硬派)が復活すると、朝鮮王朝はキリスト教厳禁に一転して、1801年の天主教弾圧(辛酉教獄)が起こった。長兄の丁若鐘は死刑(杖で撲り殺される杖殺)となり、次兄の丁若銓は黒山島に流刑となり、彼は全羅道康津に配流となった。丁若鏞は康津での18年間の配流生活で500巻もの著作を行い、経世実学の思想を大成した。配流生活を終え、1818年に故郷に帰り、1836年まで生きた。 → <丁若鏞については、宮嶋博史『明朝と李朝の時代』世界の歴史 12 1998 中央公論新社 p.354-356 / 金重明『物語朝鮮王朝の滅亡』2013 岩波新書 p.41-58,71-75 などのくわしい>