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洪景来の乱

19世紀初めの朝鮮で起こった農民反乱。鎮圧されたが、民乱の代表的な反乱であり、朝鮮の変革の最初の動きだった。

 洪景来(こうけいらい)の乱は朝鮮王朝末期の1811年12月に始まり、翌12年6月まで平安道(朝鮮北部)に広がった民衆反乱。朝鮮王朝の外戚金祖淳の専権の除去をかかげた地方官吏等が、租税軽減を求める農民を動員して起こした反乱である。反乱軍は政府軍に進路を阻まれ定州城に籠城し、4ヶ月の激戦の末に敗北・鎮圧された。しかし、19世紀半ばになると、全国各地で同じような民衆反乱が起こるようになり、それらは民乱といわれた。洪景来の乱は民乱の最初の動きだった。

民乱のさきがけとなる

 洪景来は平安道の竜岡の両班の南陽洪氏の一族で、1798年に科挙に合格した。しかし当時は平安道出身者は官界への道を基本的には閉ざされていたので、官僚となることをあきらめ、同志とはかって平安道出身者に対する差別待遇の撤廃、中央での安東金氏による勢道政治反対などを掲げて、平安道嘉山で蜂起した。
 反乱軍はたちまち勢力を拡大し、平安道全域に及ぶ勢いを示した。ただし反乱軍の構成は複雑で洪景来のような不平両班や名門の庶子だけでなく、富裕な商人層や農民もいた。中には18世紀末から活発になり始めた鉱山で働く者もいた。反乱軍は定州城に立て籠もって4ヶ月もの間政府軍に抵抗したが、最後は内部分裂によって鎮圧されてしまった。
壬戌民乱から甲午農民戦争へ 洪景来の乱は朝鮮王朝に対する大規模な反乱であり、支配者内部の対立ではなく、広範な層から結集した点では最初の反乱であった。この反乱は平安道だけに限っていたが、19世紀半ばを過ぎると全国各地に反乱が頻発する。1862年の壬戌民乱がその最も大規模なもので、慶尚道の晋州で起こった民乱に端を発し、朝鮮南部一帯に広がった。また壬戌民乱が起こる少し前に、慶尚道慶州で崔済愚という人物が東学という民間宗教団体を組織した。やがて東学によって1894年、甲午農民戦争が起こされるが、それは洪景来の乱に始まる19世紀の民乱のエネルギーを継承した蜂起だった。<宮嶋博史『明朝と李朝の時代』世界の歴史 12 1998 中央公論新社 p.364 などによる>