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ロシア社会民主労働党

1898年、ロシアで結成されたマルクス主義政党。実質的には1903年が結成年であるが、その時すでにボリシェヴィキとメンシェヴィキへの分裂が始まった。

 1898年、ミンスクで結成されたロシア最初のマルクス主義政党、とされているが、プレハーノフ、レーニンも亡命中であり、その段階では党結成を宣言したのみであった。また結党宣言と同時に非合法とされ、メンバーの殆どが逮捕されている。  実質的に党綱領・規約が決まったのは、1903年7月、ロンドンで第2回党大会であったので、実質的にはこの年が結成年であるとされている。
注意 ロシア社会民主労働党の結成年は、1898年とされていたが、山川出版社『世界史小辞典』(2004年刊)、『世界史用語集』(2008年版以降)でも1903年を結成年としている。1898年にはその中心人物プレハーノフ、レーニンらがいずれも獄中であったこと、綱領・規約・人事が決まったのが1903年であることによる。

結成と同時に分裂

 1903年にロンドンの第2回大会で、党の綱領・規約を議論して決定し、党人事も決まった。しかしその議論の中から、早くも党幹部人事をめぐり考え方の違いが明確になった。それは主としてボリシェヴィキメンシェヴィキの二派の対立であった。
 「多数派」を意味するボリシェヴィキは、革命の本質を被抑圧階級である労働者・農民の解放であると捉え、革命は暴力的に遂行され、そのためには革命政党は前衛として少数の指導者集団であるべきである、というものであった。特にレーニンがその主張を強く主張した。
 それに対して、マルトフらは革命政党と雖も広く大衆の支持が必要であるから、まずは民主的、大衆的な政党となるべきであると主張した。彼らは役員人事では少数に留まったので、「少数派」の意味でメンシェヴィキと言われた。しかし、党綱領では彼らの主張が通り、当面の党の主導権はメンシェビキがにぎった。
 ツァーリ政府の弾圧が厳しくなる中、二派の対立はロシア革命(第1次)後も続き、1906年~7年には一次統一を回復したものの、その後再び分裂した。1912年にはレーニンはプラハで協議会を開き、党の再建を決議したが、メンシェヴィキ側はそれを認めず、政党名ともにロシア社会民主労働党のままとなった。そのため、実質的にはこの年からは「ボリシェヴィキ党」と「メンシェヴィキ党」として全く異なる政党となったと受けとられている。

ボリシェヴィキ、ロシア共産党結成

 レーニンの指導するボリシェヴィキはロシア帝国政府からさまざまな弾圧を受け、指導者は殺害されるかシベリア送りとなり、あるいは逃亡して国外に亡命した。1914年に始まった第一次世界大戦にロシア政府が参戦すると、帝国の矛盾が顕著になり、多くの農民の中に厭戦気運も高まった。1917年ロシア革命(第2次)でまず二月革命が始まると、スイスに亡命していたレーニンが急きょ帰国し、十月革命でソヴィエト権力を樹立、ボリシェヴィキが政権をにぎった。翌1918年3月6日に党名を正式にロシア共産党に変更した。
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