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第1次ロシア革命

1905年、ロシア帝国ロマノフ朝の専制国家打倒を掲げた民衆蜂起による革命。立憲政体を樹立したが、まもなく専制政治に戻った。

 1905年1月、日露戦争の最中、ペテルブルクの王宮に労働条件の改善、国民議会の開催、戦争中止などを請願した労働者・民衆に対し、軍隊が発砲したことから起こった「血の日曜日」事件をきっかけに、その政府側に国会の開設などの改革を実行させた革命。

1905年の経過

 1月の「血の日曜日」事件は日露戦争での旅順の陥落直後に、司祭ガポンによって指導された労働者が、ツァーリニコライ2世に直接訴えることによって、その救済をえようとした運動であったが、革命への転化を恐れたツァーリ政府によって弾圧されたことによって、ツァーリに対する期待は裏切られた。ペテルブルクに続いて、各地で労働者は暴動を起こし、変革を求める声は全国に広がった。しかしこの段階ではロシア社会民主労働党社会革命党(エスエル)などの社会主義者は厳しく弾圧されて地下に潜るか国外に亡命していたため、まだ主導権を握っていなかった。
 一方で日露戦争は1月の旅順陥落に続いて3月には奉天会戦で大敗し、5月には日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅するという敗戦がつづき、国内でも戦争中止を求める声が強まった。6月には黒海艦隊所属の戦艦ポチョムキンの水兵が反乱を起こし、オデッサでも市民が蜂起した。ついにツァーリ政府は戦争の継続を断念し、ポーツマス講和会議に応じ、1905年9月5日にポーツマス条約を締結した。

ウィッテ首相の改革

 講和後もロシアの革命的な動きは続いた。10月にモスクワで鉄道員のストライキをきっかけに、全国でゼネストに突入すると、ツァーリ政府はポーツマスから帰ったウィッテを首相にして、事態打開に動いた。自由主義的な官僚であったウィッテは、1905年10月17日、ニコライ2世の名で「十月宣言」を出し、市民の政治的自由を認めると共に国会(ドゥーマ)の開設を約束した。
 この9月から10月にかけて、各地に新たな革命の主体としてソヴィエトが形成されていった。しかし、12月にモスクワから始まったゼネストは武力で押さえ込まれ、ペテルブルクのソヴィエト幹部のトロツキー(当時はメンシェヴィキ)なども逮捕されてしまった。この間、資本家の政府支援が進み、市民は十月宣言に満足して革命から遠のき、多数の農民も無関心に陥ってゆき、革命勢力は後退した。

革命の成果と終結

 自由主義派のウィッテ首相のもとで、1906年4月には憲法の制定が行われたが、これは国民的に審議されることはなく、ツァーリが定める欽定憲法として成立した。それは、国家評議会を上院、国会(ドゥーマ)を下院とし、ドゥーマに立法権を与えるものであり、これによって立憲君主政の形態を整えることができた。憲法に基づいて、第1回国会(ドゥーマ)が開催されたが、ウィッテは間もなく保守派と対立して辞任し、次の首相ストルイピンは、革命勢力を弾圧し、専制政治の強化に努め民主化は進まなかった。<和田春樹『ロシア・ソ連』1993 地域からの世界史11 朝日新聞社 など>

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