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憲法制定議会(ロシア)

1917年11月25日、十月革命後に開催されたロシア最初の普通選挙による議会。社会革命党が第一党となり、ボリシェヴィキは敗れたが、翌年1月、レーニンによって閉鎖された。

 十月革命(十一月革命)の前から約束されていた憲法制定会議選挙は、二〇歳以上の男女が有権者で、投票率は50%弱、その結果は(全国七九選挙区のうち結果のわかる六五選挙区についてみると)社会革命党(エスエル)39.6%、ボリシェヴィキ24.0%、立憲民主党(カデット)4.7%、メンシェヴィキ2.6%、左翼エスエル0.8%、少数民族の政党その他28.3%であった。
 人民委員会議の権力を握るボリシェヴィキであったが、国民的支持はエスエルの方に傾いた。ボリシェヴィキの基盤は兵士・都市労働者であったのに対し、エスエルは土地の平等な分配を主張し伝統的に農民の支持を広く受けていたので全国的な選挙ではこのような結果になったものと思われる。

レーニンによる議会閉鎖

 ボリシェヴィキの指導者レーニンはこの事態をソヴィエト政権の危機ととらえ、会議休憩中に全ロシア=ソヴィエト会議の名で議場を封鎖、解散させた。レーニンは、ソヴィエトをブルジョワ民主主義の議会制度より高度な政治形態であると考えていたが、ここで憲法制定議会が解散させられてボリシェヴィキ独裁(プロレタリア独裁)政権が成立した。
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